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誰にでもわかるパレスチナ問題   主任研究員 矢野裕巳

 新聞、ラジオ、テレビ等で最近毎日のように耳にし、目にするパレスチナ問題、現代の中東問題も、根本原因はパレスチナ問題にあるという報道を聞かれた人もあると思います。
 それでは、パレスチナ紛争とは何なのか?また、いったい何が問題なのかを考えてみます。

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誰にでもわかるパレスチナ問題

 新聞、ラジオ、テレビ等で最近毎日のように耳にし、目にするパレスチナ問題、現代の中東問題も、

根本原因はパレスチナ問題にあるという報道を聞かれた人もあると思います。
 それでは、パレスチナ紛争とは何なのか?また、いったい何が問題なのかを考えてみます。

誰にでもわかるパレスチナ問題(その1)主任研究員 矢野裕巳

「パレスチナ紛争、何が問題なのか?」

 

 新聞、ラジオ、テレビ等で最近毎日のように耳にし、 目にするパレスチナ問題、現代のイラクの紛争も、 根本原因はパレスチナ問題にあると言う報道を聞かれた人もあると思います。
 それでは、パレスチナ紛争とは何なのか?また、一体なにが問題なのかを数回にわけて考えてみます。

まずは、 おおまかに古代から現代までの歴史を考えてみましょう。


エルサレム市街 筆者撮影

 


 ユダヤ人はパレスチナ(イスラエル)に紀元前1000年ごろ、今から、3000年程前に王政をしきました。 そして、ダビデ王、ソロモン王の約80年間に最盛期をむかえます。皆様の中にも、ダビデ、ソロモンという名は 聞いた事のある方が多いとおもいます。共に旧約聖書にあらわれる人物で、2人にまつわる数々の面白い話が残さ れていますが、今回は、ダビデは首都をヘブロンからエルサレムに移した人物、ソロモンは壮大な第一神殿を建て た人物と覚えておいて下さい。 この、ダビデ、ソロモンの古代イスラエル王国絶頂期のあと、王国は2つに分かれます。北のイスラエル王国と南のユダ王国です。北はまもなく、アッシリアに滅ぼされます。南はしばらく続き、 やがて、バビロニアに滅ぼされユダヤ人は奴隷として連れていかれます。のちに、エルサレム帰還をゆるされ、 第2神殿の再建を始めます。その後、周辺諸国による征服、また、それに対する反乱を繰り返し、一時王政を 復活させます。

 紀元70年ロ-マによりエルサレムの第2神殿が破壊されユダヤ人の離散がはじまります。これ以後1948年までのおよそ1900年間、ユダヤ人は自分達の国をもつことはなかったのです。ユダヤ人が世界に散っていた1900年の間パレスチナ(現在のイスラエルが存在している土地)には当然ユダヤ人以外の人達が住んできました。 もちろんユダヤ人のなかにも離散せず、そのままパレスチナに住み続けた人も少数存在しましたが、人口割合としては小さいものです。

 一言で言えば、パレスチナ紛争とは、四国よりやや広い、パレスチナという現在イスラエルが存在している土地をめぐる領土問題です。2000年近い年月のあと、かつて、自分達の先祖が暮らしていたと思われる土地に移り住んできたユダヤ人と以前から暮らしていたパレスチナ人との土地争いということです。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その2)主任研究員 矢野裕巳

 

「パレスチナ紛争はここ100年の問題」

 

 紀元前15世紀~16世紀、今からおよそ3500年程前、神はアブラハムにカナン(イスラエル)の土地を与える事を 約束する。アブラハムはカナンに行くが、その子孫は飢饉の為、一時エジプトへ逃れる。そこでの奴隷生活をモーゼが 救い出しユダヤ人は再びカナンに戻る。それ以後は前回お話したように、ダビデ、ソロモンと続き紀元70年ローマに 滅ぼされ、それ以後ユダヤ人は国を持たず、1948年のイスラエル独立へと歴史は展開する。

 では、アブラハムが神の約束に従いカナンの地へ入った紀元前16世紀にはこのカナンには人は住んでいなかったので しょうか?実際にはこの地には、紀元前20世紀ごろからカナン人と呼ばれる人々が住みつき始めた様です。この地域の 人種の発祥については様々な説があります。が、少なくともアブラハムがカナンの地に来た時、エルサレムもジェリコも 都市国家としての機能を持っていたといわれており、その後、前回触れたダビデ王がヘブロンからエルサレムに首都を 移しますが、そこには、原住民が生活していた事になるでしょう。

 私自身は、すべての土地には先住民が存在し、そのことをもって国家の歴史を語れないことの理不尽さを感じます。 それでも旧約聖書、中東関係の書物、また、「十戒」を始めとする映画に見られるように、パレスチナの歴史が、パレス チナ史というより、ユダヤ民族史ではないかという考えがあることも覚えておくべきかも知れません。紛争があると言う ことは相反する二つの考えが存在することで、パレスチナ紛争の根源も、こんなところにあるかもしれません。

  ユダの砂漠 筆者撮影

 パレスチナの長い歴史を考えてみれば、あたかもこの地域の紛争は何千年まえから続いているように 思われる人も多いかも知れません。しかし、今日のパレスチナ問題は古来の歴史的経緯から生じたものではありま せん。今から100年程まえに起こったヨーロッパからパレスチナへのユダヤ人の移住がきっかけなのです。 それまでは、アラブ人、ユダヤ人はそれぞれ、別の宗教をもちながら、共存して来た歴史があります。その移住へと 追い立てたユダヤ人への差別、迫害がこの問題の根源をなすものです。

「シオニズム」

 ヨーロッパを中心とするユダヤ人に対する迫害が強まる中、ユダヤ人の国を創ろうとする運動が今からおよそ100年前におこりました。『ヨーロッパ各国にいかにユダヤ人が同化しても、結局反ユダヤ主義によって迫害される。ユダヤの国が再建されない限り、真のユダヤ人の解放はあり得ない。』と考えたのでした。自分達の祖国に帰ろうというこの運動はシオニズムと呼ばれています。シオンとはエルサレムの別名であります。国を失ったユダヤ人はいつか救世主があらわれエルサレムに神殿を再建してくれることを信じていました。しかし、これはあくまでも宗教的な信条であり、『ユダヤ国家再建』をめざす、シオニズムとは無関係であったのです。

 シオニズムの指導者テオドール、ヘルツルはもともと、ユダヤ人の移住先がパレスチナでなくとも、アフリカのウガンダや南米のアルゼンチンでもよいと考えていたのです。今でも少数でしょうが超正統派とよばれる人々は社会主義を自認していたシオニストが造り上げた世俗国家イスラエルの存在を認めていないといわれています。彼等は、神が自分達を約束の地から追放し、神が許すまでは離散生活を継続すべきだと考えているようです。人間が勝手に国を創ってはいけないということです。
シオニズムの原点である、他民族と同じように自分達の国を、ユダヤ人が少数民族でない国を創ろうという考えは聖書の考えに反するのでしょうか?神から選ばれたユダヤ人(選民)が他民族と同じでは具合が悪いのでしょうか?

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その3)主任研究員 矢野裕巳

 

「ユダヤ人とは?」

 ユダヤ人とは誰か? これにはさまざまな解釈があります。サルトルは著書『ユダヤ人』のなかで、『他人によって ユダヤ人と呼ばれる人がユダヤ人』と言い切っていますが、どうもピンときません。イスラエルでは多くの論争の後、 次のように考えられている様です。

 『ユダヤ人はユダヤ人の母親から生まれた者、ユダヤ教に改宗した者で他の宗教に帰依していない者』。基本的には ユダヤ人とはユダヤ教を信仰する人々と考えられるのです。つまり、ユダヤ教を信じていれば人種や言語に関係なく ユダヤ人としてみなされるようで、日本人として生まれてもユダヤ教の熱心な教徒であるならユダヤ人として認められる 事になるのです。それほどまでも、ユダヤ人とユダヤ教との結びつきは強いと言えるでしょう。

 

「パレスチナ民族?」

 パレスチナの長い歴史を考えてみれば、あたかもこの地域の紛争は何千年まえから続いているように 思われる人も多いかも知れません。しかし、今日のパレスチナ問題は古来の歴史的経緯から生じたものではありま せん。今から100年程まえに起こったヨーロッパからパレスチナへのユダヤ人の移住がきっかけなのです。 それまでは、アラブ人、ユダヤ人はそれぞれ、別の宗教をもちながら、共存して来た歴史があります。その移住へと 追い立てたユダヤ人への差別、迫害がこの問題の根源をなすものです。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その4)主任研究員 矢野裕巳

「2枚舌? 3枚舌?」

第一世界大戦が始まるまで、パレスチナはオスマントルコの支配を受けていました。イスラム教は本来他の宗教には 非常に寛容で、オスマントルコの治世下にあっても、アラブ人もユダヤ人も仲良く共存していたといわれています。
 第一次世界大戦でオスマントルコと戦った英国は、戦争を優位に進めるために2つの、いや3つの矛盾する条約、 約束を大戦中に結んだのでした。このことが、今も続く紛争の種となったのです。

 英国は『フセイン、マクマホン書簡』と呼ばれる往復書簡を通じてアラブに対し、パレスチナを含む東アラブ地域に独立アラブ王国を樹立することを約束しました。同時に英国はユダヤ人に対してはパレスチナの地にユダヤ人のナショナルホーム(民族的郷土)を設立することにも支持を表明したのでした。これは、『バルフォア宣言』とよばれています。

  エルサレム旧市街 筆者撮影

 

 

 

 

 

 

 

 


 この2つの合い矛盾する約束に加えて、英国はフランスとは、『サイコスピコ協定』を締結。フランスとの間で、大戦後の中東をいかに分割するかについて合意したのでした。当然英国はフランスとの約束を最重視し、英仏は自分達 だけでオスマントルコ後の中東の領土分割を取り決めてしまいました。  これが、いわゆる中東での英国による2枚舌、3枚舌外交と呼ばれものでした。 第一次世界大戦のあと、1922年、パレスチナは英国の委任統治領となり、アラブの独立国家も、ユダヤ人のナショナルホームも現実のものとはなりませんでした。ただ当然これで、アラブ人もユダヤ人もおとなしく引き下がる事はできな かったのでした。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その5)主任研究員 矢野裕巳

「国連分割案(1947年)」

 アラブ人との約束、ユダヤ人との約束、はたまた、フランスとの約束を通して、英国は第1次世界大戦前後、自ら招いた 三枚舌外交のつけをその後払わされる事となります。

 1920年、サンレモ会議でパレスチナは英国の委任統治領と認められ、1922年英国の委任統治が正式に始まりました。 アラブ人、ユダヤ人は共に、それぞれの約束を盾に、独立国家建設を主張します。その後、皆さんよくご存知の、第二次 世界大戦時のホロコースト(ナチスによるユダヤ人大虐殺)はユダヤコミュニテイーに一大打撃を与えます。ユダヤに 同情的な欧米の世論を背景にユダヤ問題解決はパレスチナにユダヤ国家を作るしかないという一大キャンペーンが展開 されます。

 一方アラブ人の立場に立てば、ユダヤ人問題、ホロコーストの問題はあくまでも、ヨーロッパの問題でパレスチナの 自分達の将来の問題とは関係なかったのでした。なによりも、英国との約束に従いアラブ人の國をパレスチナに建設する ことを望んだのでした。

 現在、パレスチナのテロに苦しむユダヤ人ですが、当時英国政府機関に対して激しいテロ攻撃を繰り返すユダヤ人も いました。パレスチナへのユダヤ人移民の数を制限しょうとした英国政府の対応に反対していたのでした。アラブ人と ユダヤ人は各地で衝突をくりかえし、その対立がますます激しくなっていったのです。

 ついに、1947年2月英国はパレスチナ問題解決を国連に委ねると宣言。事実上のパレスチナ放棄でした。英国から 問題を引き継いだ国連は同年11月国連総会においてパレスチナ分割案を可決します。パレスチナをアラブ、ユダヤの 2つの國に分割、エルサレムを国際管理下に置くという内容です。シオニスト(パレスチナにユダヤ国家を建設しよう という考えの人)にとって、この分割案は大勝利でした。国際機間がパレスチナのユダヤ国家建設を決議したのですから。
 一方アラブ側はこの決議に強く反発します。結果として、本格的な武力衝突に突入するのでした。

 現在のパレスチナ問題を考える上で、イスラエルを支持する人のほとんどは次のように主張します。『もし、この時点、 つまり1947年の時点でアラブ側がこの国連分割案を受け入れていれば2つの民族はパレスチナで共存できていたし、 当然パレスチナ国家も建設されていたであろうし、現在の紛争、難民問題もおこっていなかったであろう』
 はたしてこの時点でアラブ側がこの分割案に同意出来たかどうかは解りませんが、事実は、アラブはこの分割案に同意 せず、これ以後、アラブ、イスラエルは四度の大きな戦争を含め、多くの衝突を経験し現代もその問題を解決出来ずに 今日に至っています。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その6)主任研究員 矢野裕巳

「イスラエルの建国とパレスチナ難民」

 1948年5月14日国連分割決議をもとに、イスラエルの独立が宣言されました。残念な事に、新しい国の誕生は 新しい戦争の始まりとなったのでした。

  (写真)嘆きの壁 筆者撮影

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 19世紀の後半に始まるユダヤ人のパレスチナ移住開始以来ユダヤ人、パレスチナ人の衝突はいたるところでは 起っていたのです。
 しかしこのイスラエル建国を機に、本格的に、また、ちょっと変な表現ですが、正式に、 周辺アラブの国々が新しい国家であるイスラエルに戦争を始めました。周辺のアラブの国々とは、シリア、レバノン、トランスヨルダン、エジプト、イラクです。このアラブ5ヵ国はイスラエルが独立宣言をおこなった5月14日のうちに宣戦布告しました。アラブ陣営は兵員数、武器、装備の点でユダヤ側を大きく上回っており、いったん戦闘が開始 されれば、アラブ側の圧勝に終わると考えていました。

 ところが、初戦で苦しんだものの最終的には、イスラエルは国連分割案でユダヤ人に与えられた土地を上回る領土を獲得することになりました。これは、全パレスチナ国土の3分の2を占めています。アラブ陣営から考えれば、停戦条約で決められた分割線は、この戦争の停戦時における停戦ラインに過ぎず、暫定的な線をイスラエルの恒久的な 国境と認められないと主張しています。

 これにより、新生イスラエル国は、周辺アラブの国々との間に国境が現実に制定されていないという問題が残りました。 イスラエルはこの戦争を『独立戦争』と呼び、パレスチナ人は『パレスチナ戦争』と呼びますが、一般には『第一次 中東戦争』といわれます。  第一次中東戦争が生み出した問題点は『国境』の問題に加えて『難民の処遇』でした。戦争の惨禍から逃れるため周辺のアラブ諸国に避難していたパレスチナ人の帰還はイスラエルによって拒否されました。これにより、60万とも 70万ともいわれるパレスチナ難民が発生しました。
 パレスチナ難民問題は、中東和平プロセスの中でも、核心部分なので、アラブ、イスラエル両陣営とも全くちがった主張をくり返してきています。もともとの発生原因についてもアラブ側は、イスラエル軍がパレスチナ住民を強制的に追い立て、難民にしたと主張。イスラエルによると、戦争中アラブ陣営がパレスチナ人に脱出するよう呼び掛けたという事です。アラブ軍がイスラエルを攻撃するのでその邪魔にならないようにと。そして、アラブの勝利の後に 戻るように、説得したというのです。
 いずれにせよユダヤ人の国家建設という長年の夢が実現する一方、故郷を失うというパレスチナ人の苦難が始まりました。  

 この事は、それ以後、半世紀以上たってなお解決に至らない長い長い闘争の歴史の始まりにすぎなかったのです。

誰にでもわかるパレスチナ問題(その7)主任研究員 矢野裕巳

「アラブ民族主義の台頭、そして英仏植民地主義の終焉へ」

 新生イスラエルに対するアラブ連合軍の敗退はアラブの若者に大衝撃をあたえました。
 アラブの中心国家エジプトでは、王政の腐敗を指摘するナセルらエジプト若手将校の『自由将校団』がクーデターを起こし、 1952年エジプト王制を崩壊させました。

 ナセルは2つの大きな政策を掲げました。スエズ運河国有化とアスワンハイダムの建設でした。
 はたして、1956年7月ナセルはスエズ運河国有化を宣言するのです。運河の通行料をダム建設にまわそうと考えたのでした。 この事が引き金となり、第2次中東戦争(スエズ動乱)が勃発しました。

 当時運河を実質支配していた英国はフランス、イスラエルを誘い出し、軍事介入によってナセル政権打倒を企てます。 フランスは当時アルジェリア独立運動に苦慮しており、アラブナショナリズムの中核であるナセルを倒すことにより独立勢力 を衰退させようと考えていたようです。

 イスラエルはエジプトがソビエトからの武器援助で力をつける前に叩きたいと思っていました。英国のシナリオによれば、 まず、イスラエルがシナイ半島に進撃、スエズ運河の手前まで進む、そこで英国はフランスとともに、あたかも仲介役である かのように登場するのです。紛争から運河を守る名目で運河地帯を占領、この期をとらえてナセル政権を潰そうというのです。

 1956年10月29日、英国のシナリオ通り、イスラエル軍は運河地帯をめざし進撃。まさに英国、フランスが運河地帯に介入 したところで、思わぬ『待った』がかかりました。米国、ソビエトが、共にこの侵略行為の停止と撤兵を強く求めたのでした。 エジプトを支持するソビエトの反発は当初から予想されたものの、米国からの激しい非難に対し英仏両国は即座に撤退せざるを 得なかったのでした。

 では、どうして英国は米国の反応を完全に読み違えたのでしょうか?

 まず、イスラエルを誘い出し、攻撃の開始期日を10月の末に選んだ。なぜでしょうか?11月初旬米国では大統領選挙を控えて いて、この大統領選挙を考えればアイゼンハワー大統領もイスラエル参加の軍事行動にそう強く非難出来ないであろうとタカを くくっていました。英国は当時のアイゼンハワー大統領の現職としての人気を読み違えたようであります。ユダヤ票をあてにし なくても十分当選できたのです。

 さらに、この年1956年ハンガリーで民衆の反ソ運動が高まっていて、ソ連は武力でこの暴動を 押さえていたのでした。米国はどうしてもこの時期世界の目をハンガリーに集め、そのことでソビエトを牽制しようとしていた のでした。

 ちょうどその矢先スエズで戦争が始まりました。世界の目が中東に注がれるに乗じてソ連は兵力を首都ブタベストに突入させ反乱 を鎮圧させました。アイゼンハワーの逆鱗は三国、とりわけ英国に向けらたのでした。

 この戦争によりイスラエルは中東での軍事大国の地位を固めはじめ、エジプトは戦争には敗れましたが、スエズ運河という国家的 財産を英仏から守るという政治的勝利を勝ち取りました。対照的に英仏両国の国際的威信は大きく低下しました。とりわけ武力に よる運河奪回作戦失敗はアラブ諸国への影響力を失わせる結果となったのでした。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その8)主任研究員 矢野裕巳

「PLO(パレスチナ解放機構)設立と6日戦争」

 第2次中東戦争(1956年)のあと、1967年前後まで、イスラエル、アラブ諸国の国境付近での衝突はあった もののこの地域にしては、比較的大きな事件から遠ざかっていました。軍事的には、イスラエルとアラブ諸国の 力の差が大きく開いた時期です。イスラエルは強力な米国の援助のもと対アラブ戦略が國を挙げて練り上げられ、 防衛体制が確立していきました。これに対してアラブ諸国は対イスラエル戦略の具体的充実も見られず、結果 として1967年の第3次中東戦争(6日戦争)へ突入することになるわけです。

 1963年、イスラエルがヨルダン川の水を一方的にネゲブ砂漠にひく事を決定しました。この計画に反対する為、 エジプトのナセル大統領は1964年カイロで第1回アラブ首脳会議を招集、イスラエルの水計画に対する反対と共に PLO (パレスチナ解放機構)の設立を決定します。ナセルはパレスチナ支援の為PLOを設立したのではありませんで した。第2次中東戦争でイスラエル軍の力を見たナセルはイスラエルとの武力衝突を避けたかったのです。そして、 パレスチナ人が自分の承認なしに独自で過激な行動をとらないようにしたかったのです。その為、穏健派で自分の 意のままに動かせるアーメッド・シュケリ氏を総裁とするPLOの設立を決定しました。

 イスラエル独立と共に難民となったパレスチナ人は、自分達がアラブ同胞から決して歓迎されない存在であること に気づき初めます。とりわけ若い世代は、イスラエルに対する旧来のパレスチナリーダーがいかに無力であるかを 強く意識します。
こうした中 PLO とは別のところでパレスチナゲリラの組織が活動を始めます。カイロ大学で学んだパレスチナ人の 若者が集まり、ヤセルアラファトを中心にファタハが結成され1965年から対イスラエル武装闘争を開始します。 ファタハの主張は次のとおりです。

1、パレスチナは自分たちの手で解放する。
2、しかし軍事的に、自分達が正攻法でイスラエルに対抗するのは無理である。
3、自分達の行うゲリラ活動でイスラエルを挑発、アラブ諸国を巻き込んで対イスラエル全面戦争に持ち込む。

 はたして、アラファトのシナリオどおり、ゲリラ攻撃、イスラエルの報復が繰り返され、1966年から1967年まで イスラエルとアラブ諸国の緊張が再び高まっていきました。まもなくエジプトは、イスラエルに対しアカバ湾と紅海 を結ぶチラン海峡の封鎖を宣言。当時スエズ運河の通行を拒否されていたイスラエルにとって戦争行為そのものでした。
 一触即発にありながら、この時点においてもアラブ側はイスラエルの行動を読み取る事が出来ませんでした。

 1967年6月5日に、イスラエルの先制攻撃ではじまった第3次中東戦争はわずか6日で停戦。
イスラエルはヨルダンからエルサレム旧市街地を含むヨルダン側西岸、エジプトからシナイ半島、ガザを、シリア からはゴラン高原をそれぞれ占領しました。たった6日間でイスラエルの支配地は四倍以上に膨れあがりました。
この戦争での戦死者はイスラエル730人に対してエジプト、シリア、ヨルダンで15000人でした。
アラファトらのパレスチナゲリラが望んだイスラエル、アラブの全面戦争は実現しましたが、その結果は、あまりにも 一方的なイスラエルの勝利とイスラエルの占領地拡大に終わりました。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その9)主任研究員 矢野裕巳

「第4次中東戦争」

 第3次中東戦争の圧倒的大勝利を受け、イスラエルは占領地変換を条件にアラブ側が平和交渉に応じてくると信じて いました。しかし、1967年8月スーダンでのアラブ主脳会議の『アラブの三つのノー』でその予測は裏切られる事に なります。

 『アラブの三つのノー』とは、イスラエルとは『講和せず、交渉せず、承認せず』という原則の採択でした。
当時世界でイスラエルの華々しい電撃作戦が報じられ、たった1国を相手に大敗北を喫したアラブの弱さが大きく 報じられました。その敗北者としてイスラエルとの平和交渉の席につくことは堪え難い屈辱だったのでした。まさに アラブの面子(メンツ)です。

 ナセルの後継者であるアンワル、サダトはこの時、いつの日かイスラエルに1矢を報いる事を誓うのです。そうする 事により少なくとも対等の立場でイスラエルとの交渉の席につこうと考えていたのでした。その機会が1973年10月 にやってくるのです。イスラエルは1967年の第3次中東戦争で完敗したアラブ諸国が再度挑戦してくるとは思って いませんでした。

 第4次中東戦争はアラブの奇襲攻撃で緒戦はイスラエルが敗北します。徐々にイスラエル軍が反撃しますが、それでも イスラエル国防軍初の敗戦を経験したと言えるでしょう。イスラエル軍不敗神話がこの時崩れました。
サダトはこの第4次中東戦争緒戦の大勝利をテコにイスラエルとの和平問題を解決しようとします。サダト自身、 この戦争を『戦争による平和の遂行』としてとらえ、イスラエルとの和平の出発点としたのでした。

 緒戦の敗北のあと、米国に対するイスラエルの緊急軍事援助要請に、当時の国務長官ヘンリーキッシンジャーは意図的 に遅らせた節がみられるのです。キッシンジャーはその回顧録でもしイスラエルが再度勝利すればアラブ側はその面子 から和平を拒否するであろう。アラブ側にある程度軍事面で花をもたせることが中東和平への道だと考えたというのです。


 偶然なのかどうかキッシンジャーとサダトの意図は一致していました。
 第4次中東戦争ではアラブ側は石油を戦略のなかに取り入れます。石油価格の引き上げにより日本や西側石油消費国の ダメージは大きなものでした。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その10)主任研究員 矢野裕巳

「キャンプデ-ビッド合意」

 1977年11月エジブトのサダト大統領は、エルサレムを訪問。クネセット(イスラエル議会)で演説をおこない イスラエル国民から熱烈な歓迎を受けました。過去4度の大きな戦争の相手、イスラエルにとって宿敵である エジプト大統領のイスラエル訪問はあまりに衝撃的であり突然でした。

 当時ロンドンで学生生活を送っていた筆者 も26年前学生寮のテレビ室でサダト大統領の演説をライブで見ていました。中東からの留学生が興奮してこの話題 を語るのを聞きながら、当時の私はこれは大変な事なんだなあと思ったぐらいでした。
 突然に思えたサダトの訪問も、 当然これは水面下の交渉の結果でした。モロッコが重要なパイプ役を果たしたのでした。 モロッコはアラブの國ですが、イスラエル建国後もユダヤコミニティの生活を認めていました。アラブ世界からの 大反発を覚悟でのサダトの決断は次のような理由からでしょう。

1、戦力的にみて、イスラエルはアラブ側より強力であり、軍事力でイスラエルを抹殺することは不可能と判断する。 特にイスラエルは1960年代より核兵器を保有しており、追い詰められれば、國の破滅より核の使用を選択するのは 確実である、と判断した。

2、イスラエルに対抗する為、国民にこれ以上の負担はかけられない。アラブの大義を旗印にイスラエルと数回に わたって戦争をしたが、死者、負傷者の大半はエジプト人であった。前任者ナセルのアラブの大義に対して、 サダトはエジプト第一主義を決定した。エジプト経済の悪化という現実問題からもこれ以上の衝突は避けなければな らなかった。

 このサダトのイスラエル訪問の翌年、1978年米国大統領の仲介で2週間の合宿形式の首脳会談がおこなわれました。
 これもまた世界をあっといわせました。3国のリーダーが泊まり込みで、しかも2週間にわたり会談するというのは チョット考えられない出来事でした。
 1978年9月5日から18日まで、米国メリーランド州の大統領山荘キャンプ、デービッドで、カ-タ-米国大統領、 サダトエジプト大統領、ベギンイスラエル首相の三者会談でした。会談13日目の9月17日合意が成立、三首脳に よって調印されました。合意文書は基本的に2つの部分から成っていました。

1、エジプト、イスラエル間の平和条約を求める。これによって両国関係の正常化を達成する。
2、パレスチナ人の自治に関して、イスラエルはパレスチナ人の自治について交渉することを約束する。

 1の合意に基づき、翌年1979年イスラエル、エジプト間に平和条約が締結。イスラエルはシナイ半島返還を約束し、1982年4月完全撤退を完了した。
 2の合意に関して、約束どおりイスラエルは交渉を始めたが、自治を与える事は約束していなかった。
結果として、イスラエル、エジプト両国間の単独和平は達成されましたが、パレスチナ人の自治獲得にはまだまだ 遠い道のりでした。

 1981年10月6日サダト大統領は暗殺されます。イスラエルとの和平に反対するイスラム原理主義者の犯行でした。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その11)主任研究員 矢野裕巳

「インティファーダー(民衆蜂起)」

 エジプトとの和平成立によりイスラエルは、シリア、エジプトと二正面から戦う必要がなくなりました。 エジプト抜きのアラブ陣営とイスラエルの間にはイスラエルの圧倒的な軍事力の優越さゆえ、もはやアラブ陣営は 力でイスラエルに対抗することは出来なくなりました。この極端な軍事的不均衡の中、イスラエルがレバノン戦争 を引き起こします。この戦争は、あくまでもイスラエル側からの見地ですが、他の4度の戦争とは違っていました。
4度の戦争はイスラエルの生存をかけた戦争でしたが、レバノン戦争はベギン首相のいう『選択による戦争』で、 建国以来はじめて兵役拒否がでた戦争といわれています。
 レバノン戦争はイスラエルのレバノンに対する戦争ではなく、ヨルダンからレバノンへ亡命した PLO(パレスチナ 解放機構)に対する攻撃でした。

 当時 PLO はレバノンの首都ベイルートが本拠地でしたが、このPLO の存在がイスラエル北部の安全を脅かすという ことで、1982年6月イスラエル軍はレバノン国境を超えるのです。イスラエルの真の目的は今も占領が続くガサ、 ヨルダン川西岸のパレスチナ人の民族主義のよりどころである PLOを破壊し、占領地の支配を確実にしょうとする ものでした。1ヶ月以上もベイルートを包囲し、砲撃を続け、多数の民間人の犠牲を出しました。

 この力による攻撃に対抗して、パレスチナ住民のインティファーダー(民衆蜂起)が激しさを増してきます。
レバノン戦争で敗れたPLOは本部をチエニジアに移さなければならなくなりました。占領地に住む人たちはアラブ 諸国や PLOゲリラが自分達を解放してくれるとは思わなくなり、ついに占領下のパレスチナ人たちが立ち上がること になります。1987年12月8日ガザにおいて、パレスチナ人の車にイスラエル軍のトレーラーが衝突し、パレスチナ人 4人が死亡、7人が重症。この事がきっかけとなりイスラエル軍とパレスチナ人との衝突が激化。2日後、ヨルダン川 西岸の町ナブルスでの大きな衝突で、一人のパレスチナ少女が射殺される。そして、衝突は全紛争地に広がり子供達も イスラエル軍に石を投げて対抗し始め、パレスチナ人の中におびただしい数の犠牲者を出します。

 後にノーベル平和賞を受賞するイツハック、ラビン氏は当時の国防大臣で、そのインティファーダー対策として、 全イスラエル兵に『石を投げる者の手足を折れ』と厳命しました。イスラエルの強硬姿勢にもかかわらず、完全武装 したイスラエル兵士に立ち向かうパレスチナの子供達、女性の数は増える一方でした。
 イスラエルの占領に反対するパレスチナ人の抵抗運動はますます激しくなり泥沼に入りこんでいきました。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その12)主任研究員 矢野裕巳

「湾岸戦争とパレスチナリンケ-ジ」

 パレスチナ人の投石に対しイスラエルは逮捕、拷問、家屋の破壊をおこないました。1987年だけでパレスチナ人 25000人が逮捕、400人が死亡、5000人以上が負傷しました。 それでも抵抗の火は消える事なく、イスラエルの占領政策を苦しめます。パレスチナ人の石による抵抗以上に イスラエルを追い込んだのは、世界のメディアでした。
犠牲者がいくら出ても石だけで、完全武装したイスラエル兵士に立ちむかうパレスチナ人の映像が世界中で報道 されました。占領地の住民を弾圧し続けるイスラエル。その占領に断固として抵抗する勇敢なパレスチナ人。 すべての人がそう感じたわけではありませんが、パレスチナ人の民族自決を拒絶する占領者であり弾圧者という イスラエルのイメージを世界の一部に与えた事は確かでした。

 インティファーダーが始まって以来のマスコミ攻撃からイスラエルを救ったのは皮肉にもイラクのサダム・フセイン 大統領でした。
 湾岸戦争によってマスコミの注意が占領地からそれたのでした。
 1990年8月2日、イラクは、クウェートが歴史的にイラク領であると主張して、クウェートに侵攻。ペルシャ湾岸 でのこの戦争は当初イスラエルとは無関係であると考えられていました。ところが、クウェ-ト侵攻への欧米の対決 姿勢に対してサダム・フセインはパレスチナ問題を持ち出してきました。国際世論はクウェートからの撤退を求めた 国連決議を守るようイラクに圧力をかけました。これに対してイラクは、イスラエルの占領地撤退を求めた国連決議を なぜイスラエルに要求しないのかと主張。
 これは『パレスチナリンケージ』と呼ばれ、あたかもパレスチナ問題解決のためイラクはクウェートを占領したかの ような議論を繰り広げていきました。

 しかし、8月2日の侵攻直前までのイラクの対クウェ-ト交渉でパレスチナ問題を一言も述べてない点を考えても サダム・フセインがパレスチナ問題を真剣に考えていたとは考えられません。反イラク勢力の分団を計るため、 どうしてもイスラエルを戦争に引きずり込みたかったのでした。国際社会の大半はこのイラクの主張は問題の摺り 替えとして、受け入れず、イラクの無条件撤退をもとめ、結果として、1991年1月湾岸戦争突入となりました。

 ただパレスチナ人の間ではフセインの人気は高かったのです。1967年(第3次中東戦争)のアラブの大敗北後も イスラエルに対して強い態度でのぞむフセインに対して親近感を抱いていたのかもしれません。
目先の『反イスラエル』との文言に惑わされたアラファトはイラクのクウェ-ト侵攻直後バグダッド入りします。 この時アラファトとフセインが親密に抱き合う映像が世界のメディアに放映され、PLOのイラク支持が鮮明になり ました。戦後、それまでPLOに好意的だったサウジアラビアや湾岸諸国からの援助は打ち切られ、またPLO の主要 財源であったクウェートのパレスチナ人からの税収も完全にストップしてしまいます。
アラファトの政治的決断の誤りが招いた結果だといえるでしょう。

 一方、イスラエルは執拗なイラクの挑発に乗ることなく、イラクからイスラエルに打ちこまれたミサイル39発にも 報復を自重します。結果、戦後アメリカから膨大な援助が引き出されます。 アメリカは、開戦前にはイラクの『パレスチナリンケージ』を別問題としていたのですが、湾岸戦争後この問題解決を 目指し、アメリカを中心として中東和平国際会議の実現へと動き始めます。

誰にでもわかるパレスチナ問題(その13)主任研究員 矢野裕巳

「オスロ合意からラビン首相暗殺まで」

 湾岸戦争が終わるや米国は中東におけるパレスチナ問題解決のため、国際的中東和平会議開催に向けて政治工作を 始めました。イスラエルとパレスチナの問題を放置すれば、第2のサダムフセインが現れ、自国の利益のため、 この紛争を利用して対外的に侵略する集団が現れる事を懸念したのでした。現実に湾岸戦争後、今日に至るまで 事あるごとに米国の中東政策『ダブルスタンダーyド』はアラブの強い批判の対象になっています。米国の『ダブル スタンダード』とは、米国はイスラエルの国連決議無視の態度には目をつぶり、アラブに対しては国連決議の遵守を 強く迫り、武力行使も辞さないという矛盾点です。

 湾岸戦争終結から8ヶ月後、米国の強い働きかけで1991年10月30日から3日間、中東和平会談がスペインの首都 マドリードで開かれました。米国とソ連が共同開催国となり、イスラエルとパレスチナ代表による話し合いが始まり ました。
 しかし、イスラエルが PLO幹部の出席を拒否したためパレスチナ代表はPLOのアラファトではありませんでした。 実質問題の解決という意味では、実りのない会議でしたが、かつて一度も交渉の同じテーブルについたことがなかった アラブとイスラエルの代表が一つの会議場で初めて中東和平を話し合ったことは画期的な出来事でした。 その後イスラエルでは労働党か政権をとります。ラビン首相は、パレスチナ人の信頼を集めるPLOを拒否していては、 問題解決は出来ないと判断し、ノルウェーのホルスト外相の粘り強い仲介を受けて非公式にPLOと交渉を続けます。

 1993年9月13日ラビンとアラファトはワシントンDC を訪れ『パレスチナ暫定自治協定』に署名し固い握手をかわし ます。オスロでの事前交渉から『オスロ協定』『オスロ合意』と呼ばれています。イスラエルとパレスチナの代表が 正式文書に署名することはそれまでの常識では考えられない事でした。

 オスロ合意から半年後1994年5月4日ラビンとアラファトはカイロでパレスチナ自治協定に調印、パレスチナ暫定自治は その実現にむけて進み出しました。

 1995年9月28日ワシントン DCで『パレスチナ自治拡大協定』いわゆる『オスロ、ツー』が調印され、特にイスラエル 政府はパレスチナ人との共存を望む姿勢を鮮明にしました。急速に進むパレスチナ和平に反対する勢力は、イスラエル側 にもパレスチナ側にもいて、イスラエル国内の右派勢力、パレスチナの過激派がそうでした。

 1995年11月4日イスラエル首相イツハック、ラビンはテルアビブで開かれれていた平和集会で狂信的ユダヤ人によって 暗殺されます。
 これ以後平和プロセスは急速に衰えていくことになるのでした。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その14)主任研究員 矢野裕巳

「イスラエル極右勢力とパレスチナ過激派」

 前回にも述べたように、オスロ合意以降、急速に進むパレスチナ和平に対して反対す る勢力は、イスラエル側、パレスチナ側にも大きく表れます。
ユダヤ人がユダヤ人を殺 害したという事実。平和促進派の指導者であり現職のラビン首相を失ったという悲しみ に加えて、パレスチナとの共存を望むユダヤ人に大きなショックを与えました。

 マイケ ル・ライナー博士(大本で一年間滞在したルース嬢のお父さんで、2000年の綾部、 エルサレム友好宣言調印実現の協力者)は当時を振り返り、『あんな悲しい事はなかっ た。幾度もアラブと戦火を交え、初めてこの地に平和が訪れるという希望が粉々になり ました。暗殺の後、私は生まれて初めて神の存在に疑問を覚え、しばらくはシナゴーグ (ユダヤ教礼拝堂)に背をむけていました。』と筆者に語ってくれました。

 筆者の友人の中にも、1995年11月4日の夜、和平推進派のテルアビブ平和集会で、 『平和の歌』を歌い終えた直後、和平反対派青年のピストルの弾がラビン首相の 心臓と『平和の歌』の歌詞カードをつらぬいた場面を目撃した人が数人います。彼等もま た、ライナー博士と同じように当時の絶望感を語ってくれました。

 はたして、ラビン首相暗殺犯イガール・アミールはどのような人物で、どのような考えで 暗殺におよんだのでしょうか?
 アミールに代表されるイスラエル極右勢力の考えは 次のようなものです。
『カナン、つまりパレスチナは神がユダヤ人に与えられた約束の 地である。だからこの地をすべてユダヤ化する事は神の意志にかなうものである。』 このような考えを持つ彼らには、パレスチナ人との共存を前提に、ガザだけでなく、 ヨルダン川西岸のエリコにパレスチナ自治権を与えようとするラビン首相の考えを受け 入れる事は到底できないことでした。

 ラビン首相暗殺に続き、和平推進ムードを大きく揺るがす事件が今度はパレスチナ過激派 によって引き起こされました。1996年2月5日から1週間の間にテルアビブ 、 エルサレムを中心に数回、対ユダヤ人自爆テロが起り60名以上の死亡者が出ました。 連続自爆テロを引き起こしたパレスチナ過激派はパレスチナ全土からのイスラエルの撤退を 要求しています。

 イスラエル極右勢力とパレスチナ過激派。共に和平反対勢力であり、実際に彼らの思惑どおり、 2つの民族の共存への道は遠のいていきました。
1996年5月29日に行われたイスラエル総選挙において、リクード党党首ベンヤミン・ネタニヤフが 政権を取りました。無差別テロからの治安回復を旗印に政権奪取しましたが、ネタニアフ首相は オスロ合意に反する政策を進め、パレスチナとの和平プロセスは大きく後退していくのです。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その15)主任研究員 矢野裕巳

「ユダヤ人が2人いれば政党が3つできる」

 イスラエルは2大政党であるリクードと労働党、その他多数の政党が群立し、いずれ の政党も過半数の議席を獲得できず、つねに連立内閣で政府は成り立っています。 ユダヤ人の自己主張の強さを説明する時、『ユダヤ人が2人いれば3つの考えが存在 する』や『ユダヤ人が2人いれば3つの政党が成立する』という比喩がよくつかわれ ます。

 私自身の体験から卑近な例を示せば、数年前テルアビブでイスラエル人と日本人のグ ループでお茶を飲みに行きました。15名程で日本人は私をいれて4~5名でした。 ウエイターが注文を取りに来ました。10名程のイスラエル人はほとんどが、違った ものを注文していました。翻って、日本人のグループは注文する前に、となりの日本 人に『何にする?』と聞き、『そしたら私もそれにする』というような会話があり、 全員が同じものを注文しました。海外での事なので日本国内では多少事情が違うかも しれませんが、日本でもよく聞かれる会話ではないでしょうか?このエピソードがユ ダヤ人の自己主張の強さを示す好例とは思いませんが、自分の欲しいもの注文するの に他人の意見に傾ける態度を理解する事は彼等には出来ないでしょう。

 1996年5月リクード党からベンジャミン・ネタニヤフが首相に当選しました。 2大政党の1つリクード党はパレスチナ人の領土獲得の欲望をできるだけ押さえ込み、 ヨルダン川西岸をイスラエルが完全に支配しその元でパレスチナ人に自治を認めると いう基本姿勢をもっています。もう一方の労働党はユダヤ国家とパレスチナ人の地域 を分離し、パレスチナとの和平によって共存を実現しようとする考えです。 別の言い方をすれば、労働党は『土地と平和の交換』つまり1967年の第3次中東 戦争で占領した土地から撤退し、アラブのイスラエル承認を勝ち取るという政策です。 対するリクードから当選したネタネヤフ首相は 『平和と平和の交換』を提唱。イス ラエルは占領地からの撤退は行なわないが、アラブ側はイスラエルを承認、平和条約 を結ぶというものです。

 対パレスチナに対する安全保障の基本的なアプローチの違いであって、単純に、労働 党が平和の政党でリクード党はそうではないとは言い切れません。実際に自国の安全 が脅かされた時には群立する小政党を含め2大政党も一致団結して実力行使、多くの 場合先制攻撃によって防御するというのが、イスラエル政府の方針です。

 ただ、ネタニヤフ首相の『平和と平和の交換』では、対アラブ和平プロセスが進展す る事はありませんでした。ネタネヤフ首相に関する未公開のエピソードを1つ紹介し ます。

 1976年、エールフランス旅客機がパレスチナゲリラにハイジャクされ、ゲリラは ユダヤ人以外を解放し、アフリカのウガンダエンテビ空港へ着陸。ゲリラの要求はイ スラエルの収監されているパレスチナ政治犯の釈放でした。訓練を重ねたイスラエル 特殊部隊の働きでゲリラ全員を射殺。この事件は後にエンテベの奇跡としてハリウッ ドで映画化されました。この快挙のなか救出部隊にただ1人の犠牲者がありました。 ゲリラ側の弾丸に倒れたのは、隊長であるヨナタン、ネタニエフ氏、ネタネヤフ首相 の実弟でありました。

 前回にも紹介したマイケル・ライナー博士とベンジャミン・ネタニエフ首相は米国留 学時代からの大の仲良しで、日本流にいう御神酒徳利(いつも一緒にいる仲のよい2 人)でした。共にイスラエルの将来を背負う雄弁家として知られていました。

 特殊部隊がイスラエルに凱旋帰国し、国民に大喝采の中迎えられた夜、マイケル青年 は、悲しみに涙するベンジャミンに1つの提案をします。当時はまだ独身であったマ イケル青年は将来自分が結婚して男の子が生まれたらヨナタン(ジョナサン)という 名前をつけ、家族のようにつきあう事を約束したのでした。その約束通り、結婚し、 長男が誕生すると、迷う事なくヨナタンと命名、そのヨナタンは幼児の時からネタニ ヤフ首相と文通を続けたのでした。労働党支持で、和平推進派の中心であるライネル 家は現在ではネタニヤフ家との関係は疎遠になっていますが、エンテベの栄光の陰に このようなエピソードが存在した事も事実なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 そのヨナタンが27才となった今(写真上)でもパレスチナ問題は大きな課題としてさまざまな 紛争の火種となっています。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その16)主任研究員 矢野裕巳

「綾部市、エルサレム市友好都市宣言」

                                                 

 

 

                                                   (写真左)堅い握手を交わす綾部市長(当時)とイスラエル大使(当時)

 

 イスラエル、パレスチナ和平交渉は1996年に始まるネタニヤフ政権の3年間、遅々として進みませんでした。

 1999年5月の総選挙で労働党エフード・パラクが首相に就任すると、頓挫した和平の推進に積極的に動きます。 バラク首相はイスラエルで誰よりも多くの勲章を得た軍人として知られ、軍の最高位(参謀総長)から政界に転じました。 これは、故イツハック・ラビン首相と同様イスラエルの典型的な出世コースです。 選挙中から和平推進に積極姿勢を示していたエフード・バラク首相は、就任後直ちに米国へ飛びクリントン大統領と和平 協議。またアラファト議長、ムバラクエジプト大統領、ヨルダンのアブドラ国王といった中東和平へのキーパーソン達と 次々に会談し、和平推進の積極姿勢を内外に示しました。

 何度も名前が出てきますが、1999年9月2日から13日までマイケル・ライナー博士が天恩郷を初訪問。
 9月8日には『ユダヤ教は平和の宗教か』の特別講演を安生館5階でおこない、約70名が聴講しています。また、博士は この短い滞在中、国際部留学中の次女ルース嬢と共に、二度にわたり4代総裁に面会。9月5日と10日の両日で、共に 予定の時間を大幅に延長、2時間を超える面会となりました。
5日のご面会では、当時国際部長の出口真人氏(現大本大道場長)が、霊界物語のお示しを含め、エルサレムと綾部の 関係を話題にし、将来の綾部、エルサレム提携の可能性について言及しました。博士は、その可能性について具体的に 丁寧に返答されました。

 通訳として同席していた筆者は、当時の面会時における会話をすべて覚えているわけではありませんが、出口聖子4代 総裁が次のように発言された事は明白に記憶しています。
「今までに、綾部とエルサレムの姉妹都市の話は何回か聞いているけど、なかなかうまく行きませんね。 でも本当にこれが実現すれば2代様が一番喜ばれるでしょう。」

 

 

    

                                                    (写真)署名をする四方八洲男市長(当時)

 様々な双方の外交努力。またもちろん神様の大きなご守護のもと、翌2000年2月9日、綾部市 I Tビルで綾部市、エルサ レム市友好都市宣言署名式が実現しました。

 その署名式での祝辞で、4代総裁は 「綾部市は日本で世界連邦都市宣言をした第1号でございます。そしてエルサレム市と友好都市を結んだのも、 第1号でございます。私の祖母、出口すみ子2代総裁は世界連邦の運動に入って協力すれば世界は平和になる のではないかと、非常に喜んでいた事を、私は覚えております。そして、昭和25年ローマでの第1回会議に、 祖母は『私も行く』といっていたのでございます。まだそのころは、交通も不便で、食料も大変でございまし たが、味噌と梅干し、干飯(ほしいい)をもって行くんだと、張り切っておりました。」
と、述べ、次のように締めくくられました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                    (写真)出口聖子4代総裁の祝辞

 「祖母が生きておりましたらこのように綾部とエルサレムの友好都市宣言が出来た事、どんなに喜んだかなと、 私は一番先に祖母の事を思い出しました。」

 この祝辞を舞台のそでで聞きながら私は5ヶ月前のライネル博士の4代総裁とのご面会を思い出していました。


 

「エルサレムで『世界平和祈願祭』」

 

 エルサレムと綾部市が友好都市宣言が行われた2000年。7月22日から29日ま で総本部から『エルサレム平和使節団』が結成され、103名が、イスラエル、テ ルアビブ市で開催された『第85世界エスペラント大会』に参加しました。またハイ ファ市のティコティン日本美術館では『日本の夕べ』を開催し、多くの市民に日本文 化を紹介しました。

                                                   (写真)モルモン大学礼拝堂での「平和祈願祭祭典」

 また、エルサレム市では大本祭式による『世界平和祈願祭』を執 行。エルサレム旧市街が一望できるブリガム・ヤング大学(モルモン大学)講堂での祭典となりました。
 大本祭員に続いて、ユダヤ教指導者のデービド、ローゼン師、イスラム教指導者アブ ドル、ブカリ師、キリスト教指導者ウエイン、マイニア師が登壇、それぞれ玉串をさ さげました。
 三教の聖地であるエルサレムで、三教の指導者と大本からの参加者が共 に祈りを捧げた事は大きな意味があったと思われます。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その17)主任研究員 矢野裕巳

「指導者の決断」

 『エルサレム平和使節団』がイスラエル滞在中、パレスチナ和平も大きな転換期を迎 えていました。大統領任期満了を半年後に控え、クリントン大統領はイスラエル首相 エフード、バラクとアラファトパレスチナ自治政府議長をメリーランド州のキャンプ、 デービッドに集め歴史的合意の達成をめざしていました。交渉は寝る間も惜しんで連 日、深夜まで続けられました。

 通訳として同席していた筆者は、当時の面会時における会話をすべて覚えているわけではありませんが、出口聖子4代 総裁が次のように発言された事は明白に記憶しています。
「今までに、綾部とエルサレムの姉妹都市の話は何回か聞いているけど、なかなかうまく行きませんね。 でも本当にこれが実現すれば2代様が一番喜ばれるでしょう。」

 

 

 

 

 


 

        

 

                                                   (写真)エルサレム旧市街

 旧市街と東エルサレムを含む全エルサレムはイスラエルの永遠の首都であるというの が、イスラエル政府の従来の主張でした。(1980年のエルサレム基本法)これに 対して、パラク首相はクリントン提案のエルサレム分割案を受け入れました。イスラ エルの首相として初めての受け入れでした。また、バラク首相は占領地の96%から の撤退も提案しており、右派勢力の反対を考えれば、極めて勇気ある決断でした。し かし、さらなる妥協を要求するパレスチナ側にとっては不十分な条件で、交渉は合意 は至りませんでした。ただ、大きく譲歩したバラク首相に対して、交渉妥結の落とし 所を見出せなかったアラファト議長の責任は大きいと思います。  

 クリントン大統領のパレスチナ和平合意仲介に関しては、その姿勢が批判の対象とな る事も多く、任期中に合意をとりつけノーベル平和賞をねらったと考える人もいます。 ただ、大きな事柄をなそうとする時は、必ず反対意見があるもので、パレスチナ問題 のような複雑な和平交渉に取り組んだクリントンの情熱は、やがて歴史が証明してく れるものと思います。

 和平交渉失敗からイスラエルはバラク首相に代わり、対パレスチナ強行派のシャロン 首相が新首相に。そして、その時になって初めてアラファトはクリントンの和平案を 受け入れることを表明したのです。もちろん、シャロン首相が受け入れる事はなく、 遅すぎた決断でした。クリントン案を受け入れていたら、バラク、アラファトは共に 同胞の原理主義者から大きな生命の危険にさらされ、暗殺されたかもしれません。そ の覚悟と勇気において、バラク首相とアラファト議長には少しの、温度差があったか もしれません。『パレスチナ人は機会を逃す機会を逃した事がない』とは、ちょっと 言い過ぎかも知れません。ただ、2004年11月11日、この世を去ったアラファ ト議長にとって、自分の目でパレスチナ国家樹立を確かめる最後の、そして最高の機 会であった事は確かでしょう。

 パレスチナ問題を語る上で、パレスチナ人が被害者、ユダヤ人が加害者という図式で その紛争を解説する人達がいます。しかし、現在のパレスチナが弱い立場に置かれて いるのは、過去の戦争の結果なのです。1947年の国連分割案を受け入れず、戦争をしかけたのは、 アラブ側であり、その結果によっては現在の立場は逆になっていたかも知れません。

 イスラエル建国時、時の国力を考えて決断を下し、将来の国民の為に譲歩するところ は譲歩する勇気をもっていたベングリオン首相のような、強いリーダーシップと先見 性、決断力のあるパレスチナ人の政治的指導者が和平推進には何よりも不可欠だと思 われます。

誰にでもわかるパレスチナ問題(その18)主任研究員 矢野裕巳

「神は死んだ。パレスチナ問題の複雑さに悩んで!」

 総本部からの『エルサレム平和使節団』が日本へ帰国してから2ヶ月後。 2000年9月、アリアクサ、インティファーダ(民衆蜂起)が勃発します。 バラク首相の和平交渉の行き詰まりにつけ込んだリクード党首アリエル・シャロン氏の行動が、 パレスチナに対する挑発行為の発端となります。 9月28日、エルサレム旧市街のハラム・アシャリフ (高貴な聖域、ユダヤ教では神殿の丘)に約1000名の護衛を引き連れ、 シャロン氏はイスラムの聖地へ足を踏み入れました。 ここには、アルアクサモスクと岩のドームがあります。 

 翌29日2万人以上のパレスチナ人が抗議行動を開始、 嘆きの壁にお参りに来ていたユダヤ教徒に投石を始めました。 死傷者数が増えていきましたが、ほとんどが、パレスチナ人でした。 ガザで12才のパレスチナ人、ムハメッドが父親の前でイスラエル兵に射殺される様子、 またイスラエル兵がパレスチナ群集にリンチで 殺害される様子等がそれぞれ世界のメディアで繰り返し報道されました。

 クリントン大統領は衝突が止まらないのを受けて、 両首脳と電話会談するなど、自ら介入に乗り出します。

 7月のキャンプデービッド決裂後も翌年1月の任期終了まで クリントン大統領は和平合意に努力します。クリントンは、 中東に関わりの深い国務省高官デニス・ロス氏を中東和平担当の大統領直属特使に任命し、 ひとたび問題が起ると『火消し役』として直 ちに派遣するのでした。

 2001年1月にクリントンを受け継いだブッシュ大統領は一転、 パレスチナ問題に距離を置きます。 パレスチナ問題解決を外交上の最優先課題と位置付けていたクリントンに対して、 ブッシュ政権は『パレスチナ問題は米国の国益を直接損なわない』と判断しました。 それよりもクリントン政権が手をつけなかったイラク問題に焦点を合わせてきたのです。

 1991年の湾岸戦争後、 パレスチナ和平の突破口となるマドリード会議を実現したベーカー元国務長官でさえ、 その回顧録のなかで、『国務長官に就任して以来実は私はパレスチナ問題には関与したくなかった。 アラブ、イスラエル紛争は、解決すべき課題というよりも、 避けるべき落とし穴と見なしていたのが、正直な気持ちである』と告白しています。

 哲学者ニーチェの『神は死んだ。パレスチナ問題の複雑さに悩んで死んだのだ』と いうジョークを聞いた事があります。もちろん、ニーチエはそんな事は言っていないでしょうが、 この問題がいかに複雑かを表していると思います。

 ブッシュ政権のパレスチナ問題への及び腰は 2001年9月の同時テロによって修正を余儀なくされる事になるのです。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その19)主任研究員 矢野裕巳

「9.11」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                               2001年9月11日15時頃、筆者撮影

 


 『どうやらこれは、パレスチナ過激派の仕業らしい』また『世界貿易センターに勤めるユダヤ人をターゲットにしたテロらしい』『 ニョーヨーク金融界を牛耳るユダヤ人排斥運動の始まりだろう』あるいは『いやいやこれはむしろユダヤ人自身が仕組んだテロである』 

 2001年9月11日、午前9時頃であったと記憶しています。セントラルパーク西81丁目、エクセルオールホテルのロビーでの宿泊客や従業員との会話である。根拠のないデマがマンハッタンを駆け巡っていました。

 9月13日の国連総会に先立つ各宗教代表者の祈りの集会に出席する出口眞人氏と共に私は通訳として9月10日の夜、ニューヨーク入りしていました。テロの直前まで私は、二人のユダヤ人と電話をしていました。同じようにニューヨーク入りしていたデービット・ローゼン師(ユダヤ教ラビ)とフィラディルフィアに滞在していた、マイケル・ライナー博士でした。それだけにロビーでの『ユダヤ人への攻撃』との会話は私にとってショッキングなものでした。

 実は日本を離れる5日前にジェームス・モートン ニューヨーク宗際センター所長からファックスが入り、9月11日に開催される、エルサレム問題の討論会と昼食会に大本からも出席して欲しいとの要請があり、予定を1日早めて9月10日に関西空港を出発していました。もし、予定を変更せず9月11日に出発していたら、困難な中で開催された13日のコフィ・アナン国連事務総長を迎えての祈りの集会に出席出来なかったでしょう。また、米国に入国する事なく、恐らくはカナダのどこかの空港で少なくても1週間は缶詰め状態になったと思われます。

 ほとんどの行事がキャンセルになる中で、9月13日、ミッドタウンにある聖バーソロミュー寺院で大本を含め15の宗派の祈りが捧げられました。イスラム教の代表者が祈りのなかで、今回のテロを強く非難、イスラムの教えに真っ向から相反する行動であると述べた時は500人をこえる参列者から大きな拍手がおこりました。

 最後に挨拶に立ったコフィー・アナン氏もテロに対する非難とともに、安易な報復に対する警告を発しました。暴力に対する暴力の報復は、真のテロ撲滅にはつながらないと繰り返しました。テロから2日後の米国の世論を考えればかなり勇気ある発言であったと思います。 

 航空チケットを変更する事なく、私達は9月16日午前9時のフライトでニューヨークを離れました。デトロイトを経由しテロ後、米国からの初めてのフライトで関西空港へ17日帰国しました。

 私にとって生涯忘れる事の出来ない8日間でした。テロ直後はしばらくは帰国出来ないかもしれないと考えたこともありましたが、丸4年たった今でも鮮明に覚えている事が2つあります。

 ラガーディア空港を離陸した直後、機内から今だグランドゼロから立ちこもる煙を満席の乗客すべてが見つめていた事。少なくとも私の席から見える範囲において全員が見つめていました。

 もう1つは、ラガーディアからデトロイトに到着するとすぐに銃をもった男女2名の兵士が機内に乗り込み私達の席の3,4席前のアラブ系の人物を連行した事でした。機内は凍りついたような雰囲気になりました。テロの犯人逮捕か? 私を含めて何人かはそう考えたに違いありません。後に米国は9.11後多くのアラブ系の人々を連行しその大半はテロとは何ら関係ない無実の人達でした。デトロイトでの人物もその中の一人であったのでしょう。

 冒頭でのユダヤ人へのデマ、同時多発テロ後のアラブ系民族への無知。パレスチナ紛争を含め多くの紛争は誤解と相手への恐怖からの偏見がその根本的要因として存在しているのではないでしょうか。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その20)主任研究員 矢野裕巳

綾部市長の英断

 「来年、イスラエル、パレスチナの紛争遺児を綾部に呼ぶので、君にも手伝って欲し い。いずれ正式に大本に協力依頼をするので、その時は引き受けてくれ。」2002年11月上旬、四方八州男綾部市長から直接このような話がありました。

 綾部市がエルサレム市との友好都市宣言に調印して3年を記念する、具体的な取り組 みとして将来の和平の鍵をにぎる子供達を日本へ招待。イスラエル、パレスチナの子 供それぞれ7名、イスラエル、パレスチナそれぞれの付き添いや窓口となったシモン ペレス平和センターからの代表、イスラエルテレビの取材をふくめ総勢20名の団が 組まれ、2003年7月26日から8月1日まで綾部、東京を中心に日本に滞在しまし た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 イスラエル、パレスチナ双方の代表者を日本に招いて対話や交流の場を持つ試みは綾 部だけではありません。

ただ、次の点で綾部プロジェクトは大きな特長を持っていま した。

 1、綾部が招いたイスラエル、パレスチナ双方の子供達(14才~17才)は親か兄 弟姉妹また親戚の誰かが紛争で犠牲になっています。つまり、単にイスラエル、パレ スチナの成績優秀者をテストで選抜したのではありません。参加者はみんな何らかの 心の傷をもっており、その意味で、現地の窓口(ペレスセンターや大使館、外務省) にすべてを委託したのではなく、綾部実行委員会が現地に代表者を派遣し参加者を選 抜。また、子供を遠い日本に預ける事を心配する父兄に説明会としてオリエンテーショ ンを開催しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 2、それぞれイスラエル、パレスチナの子供達には日本滞在中、自分達とは違った日 本文化、異質な文化を体験してもらう。その体験から自分達とは違う考え、文化をも つ人々を理解する事を学んでもらおうとした事です。その事は将来のイスラエル、パ レスチナを背負って立つ彼等がそれぞれお互いを理解するための重要な資質となると 考えました。実際私自身もイスラエル、パレスチナ対話集会のようなものに何度が参 加した事がありますが、お互いがお互いの主張をくり返すのみで、相手の主張に耳を 傾けようとしません。

1週間彼等と行動を共にした7名の日本の子供達が、自分の考 えをはっきり述べる事を学び、そしてイスラエル、パレスチナの子供達が、相手の主 張にも耳を傾ける事を学んでくれたとしたならば、我々の意図は達成できた事になり ます。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その21)主任研究員 矢野裕巳

「走りながら勉強を! 走りながら準備を!」


 平成15年1月28日、『中東に和平を!』地球市民綾部実行委員会が四方八洲男綾部市長を委員長として正式に立ち上がりました。それぞれが、役割を分担し、7月の行事に備えたのでした。
 私も国際問題担当として、テルアビブのペレス平和センターとのメールや電話での交渉の役をいただきました。ペレス平和センターは現地の窓口でした。また、マスコミ対策と外務省との打ち合わせ等、多忙な市長の外交スポークスマンとして仕事をさせていただきました。
 外務省や海外特派員協会には2月から7月にかけて10回以上訪問し、綾部の取り組みを説明して廻りました。仕事を始めるにあたり、市長からは次のような指示がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 



1.イスラエル、パレスチナのどちらかに加担するような印象を与えない事、綾部は決して政治的にどちらかのサイドを支持するスタンスをとらない。 

2.世界連邦都市宣言第1号として、綾部は地球市民レベルの交流を日本へそして世界へ広めて行く事の大切さを示したいと考えている事をしっかり伝えて欲しい。

3.良い事をするのだからできるだけマスコミに取り上げられるようにする。中東問題、特にパレスチナ問題には多くの日本人は疎遠である。

4.その意味でむしろ日本に駐在する世界の主な新聞の東京特派員に接触し、彼らの注目を得る事により、日本のマスコミを動かす事ができるかも知れない。

5.市民レベルのパレスチナ問題勉強会を開く、またできるだけ分かりやすい内容で基礎的な内容を理解出来るような小冊子のようなものをまとめる。

 最初からすべてうまくいったわけではありませんでした。イスラエル、パレスチナどちらにも肩入れしない印象を与える為には、当然両サイドの主張を理解しなければなりませんでした。お陰で当時は私の人生で記憶にないほど集中して勉強していました。

 日本を代表するパレスチナ問題の専門家との意見交換の場も経験しました。 実行委員のそれぞれが、自分の役目を果たそうとしました。真剣に取り組むあまり、意見の食い違いもあり、大変な時期もありました。
 ただ多少考えの違いがあったとしても綾部へイスラエル、パレスチナの子供達を招きたいという気持ちは一つであったと思います。2年以上たった今振り返って、素晴らしい経験をさせてもらったという気持ちで一杯です。

 当初あまり相手にしてくれなかった世界各国の東京特派員にもすこしづつ理解されはじめました。
まさに走りながら勉強し、走りながら準備した6ヶ月でした。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その22)主任研究員 矢野裕巳

「絶望はおろか者の結論」

                  ソンドス・スネナさんと小泉首相(当時)、そして筆者

 2003年7月26日午前10時15分、イスラエル、パレスチナの子供達それぞれ7名ずつ、また双方の付き添いや関係者を含め20名は無事、関西空港へ到着。最初の3日間は綾部に滞在。そして、そのうち2日間は綾部の一般家庭にホームステイしました。
 ホームステイではそれぞれイスラエル、パレスチナの子供1名ずつ受け入れてもらうようにしました。当初の受け入れ側の心配をよそに、後にイスラエル、パレスチナの子供達全員がそれぞれのもっとも印象に残る事の1つにこのホームステイ体験を真っ先にあげていました。

 29日の夜、京都からバスで東京に向かい、30日早朝大本東京本部に到着。東京本部で朝食をとった後、首相官邸で小泉純一郎首相と面談しました。
 首相は最初から子供達の目をしっかり見ながら、子供達の目線で話されました。
 『日本も60年前アメリカ、イギリスと戦争をしましたが、今は世界で1番の友好国になりました、けっして希望を捨てないで』と激励、参加者全員のそれぞれの自己紹介にも、真剣に耳を傾けられました。
 最後に、いったん面談室から出られた首相は、もう一度部屋に戻られ、『絶望はおろか者の結論、和解への希望を持ち続けて下さい』と、大きな声で英語と日本語で話されました。子供達の感激は私達にも大きく伝わってきました。


 

「日本で学んだ思いやりの精神」


 

 

 

 

 

 

 

                 成田空港での別れを惜しむ子供たち

 

 8月1日、成田空港から帰国した直後、今回の団長であり、ペレスセンター代表ニリッ ト・モスコビッチ女史から次のようなメールが届きました。

 『イスラエルのテルアビブ空港に到着した後、いつものようにイスラエル人はほぼフリーパスで税関を通過。パレスチナ人は長い税関検査。パレスチナの子供が検査を受けている間、イスラエルの子供達の家族はすでに迎えに来ていました。少しでも早く家族に会いたい気持ちを抑えながら最後のパレスチナの友人が検査を終えるまで3時間。 誰1人帰る事なく、全員14名で空港出口をあとにしました。
日本の方々には普通のように思われるかも知れませんが、これは大変な変化でした。日本で学んだ、思いやりの精神であると思われます。』

 

 

「将来は日本に留学を」

 また、8月3日には、パレスチナのソンドス・スネナさんのお母さんから電話がありました。
 『ソンドスは紛争で父親を失って以来、あまり笑顔を見せませんでした。今回綾部に招いて頂き、帰国後日本での体験を楽しそうに話してくれます。将来は、しっかり勉強して是非日本に留学したいと話しています。娘が嬉しそうに話す様子を見て、母親としてこれ以上嬉しい事はありません』と涙ながらに語ってくれました。


 

                     さよならパーティーで挨拶をする谷垣禎一国家公安委員長(当時)

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その23)主任研究員 矢野裕巳

「分離壁そしてアラファトの死」

 2003年8月1日、成田空港で別れた綾部プロジェクト参加者との再会は2005 年4月11日、東エルサレムのアムバサドールホテルで実現します。

 この間、パレス チナ情勢は必ずしも平和への明るい方向ばかりではありません。イスラエルによる分離壁の建設とアラファト議長の死去について考えてみましょう。

                      ヨルダン川西岸の壁(写真左/2005年4月10日・筆者撮影)

 2002年6月、シャロン首相はヨルダン川西岸に『壁』の建設を指示しました。『壁』はイスラエルサイドからは『安全保障のためのフェンス』と位置づけられ、物 理的な障害を設ける事でパレスチナからのテロ行為を防止するとの見解で、始まりま した。

 パレスチナサイドからは、『アパルトヘイトウオール』であり、この壁により、 自分達が限られた居住区に押し込まれてしまうと恐れているのです。分離フェンスは 全長700キロにわたり計画され、ユダヤ人入植地をイスラエル側に取り組むため、 そのルートは西岸の内部に大きく食い込む形になっています。パレスチナ側の『治安 を口実に真のイスラエルのねらいは土地収奪が狙いである』という主張の根拠になっています。ユダヤ人入植地を取り囲むように建設された巨大なコンクリート壁によって自分達が住む家が村から切り離されたパレスチナ人の過酷な境遇を各国のメディアは世界に紹介しました。パレスチナ人はまさに分離壁によって生活基盤を分断されたのでした。

 『いくら、テロ防止という目的を掲げても、こんな策はやはり許されない』というのが、ヨルダン川西岸での分離フェンスに対する多くの人の感想ではないでしょうか。
 国連総会は2003年10月21日に『壁』の建設中止を求める決議を採択しました。 国際司法裁判所は翌年2004年7月9日、分離フェンスについて『国際法違反』と評決しイスラエル政府に対して壁の即時撤退とその建設で生じた損害を賠償するよう勧告を出しました。米国務省バウチャー報道官は同日、この国際司法裁判所判断を痛烈に批判、この勧告を法的拘束力がないと指摘したうえで、この問題を国際司法裁で扱うこと自体が不適切とコメント。和平を目指す当事者の努力を妨げるものであると批判を加えました。


 

「ヤセル・アラファト議長の功罪」


 2004年11月11日パレスチナ自治政府議長ヤセル・アラファトが亡くなった。

 

 

 

 

 

 

 

                                                            (写真左は埋葬地/ヨルダン川西岸パレスチナ自治区ラマラの

                                                              議長府内/2005年4月10日・筆者撮影)
 


 アラファトについては、権力への異常なまでの執着、各国からの資金援助の不明瞭な流れや巨額な遺産を残した等の闇の部分がよく話題にのぼります。また、晩年はイス ラエルや米国からテロリストとして位置づけられ、ラマラの議長府に軟禁されたりして、その影響力は大きく低下しました。

 ただ、現代のパレスチナ問題を世界に知らしめる事に貢献した事は事実であり、自分達はパレスチナ人であるとの連帯感をパレス チナ人に産み出したのは、アラファトの功績だと思います。ただ、以前の章にも書きましたが、エジプトのサダト大統領やイスラエルのラビン首相のようにたとえ同胞に『裏切り者』と罵倒され、暗殺されても国の将来のために実行する勇気がアラファト議長にあればパレスチナ国家はすでに建国されていると思っています。たとえまだ建国されていなくても、もう少しはっきりした道筋ができていたのではないでしょうか?

 


「アメリカンマネー」


                      

 

 

 

                    

                     パレスチナ自治区ラマラの議長府(2005年4月10日・筆者撮影)

 2005年4月9日、私はパレスチナ自治区ラマラの議長府を訪問、アラファト議長の埋葬地や分離壁を目の当たりにしました。  

 パレスチナ人タクシー運転手のチャーリー が分離壁を車中から指差し大きな声で叫んだ、その声と彼の顔つきは今だに私の脳裏 に焼きついています。  

 『アメリカンマネーだ』、分離壁建設経費の多くは米国からの財政援助で進められているのです。


 

 

 

 

 

 

 

 

              鹿子木人類愛善会事務局長(当時)とパレスチナ人タクシー運転手のチャーリー

             (ヨルダン川西岸パレスチナ自治区ラマラの議長府前にて/2005年4月10日筆者撮影)

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その24)主任研究員 矢野裕巳

「次の世代には・・・やっぱり無理かも」

 2005年4月11日夕刻、東エルサレムのアムバサドールホテルでおよそ2年ぶりに、綾部プロジェクト参加者に再会しました。パレスチナの子供は7人全員、イスラエルの子供は、兵役についたり海外に留学している関係で4名の参加でした。
 

 

 

 

 

 

 

 

 



 イスラエル、パレスチナの付き添いや子供達の父母や兄弟も数名来てくれ、 全部で22名の交流会となりました。お互いに相手を確認し抱き合って再会を喜びました。その後、ジュースとお菓子で『平和』についての討論会を2時間あまり持ちました。 激しい討論でした。元来、静かに相手の意見に耳を傾け、指名を受けてから自分の意見を控えめに述べる多くの日本人には、討論というより罵りあいに写るはずです。

「イスラエル人のパレスチナ人に対する横暴なる暴力」
「パレスチナ人が自爆テロを止めない限り平和は来ない」
「どうして自爆テロがおこるのかをイスラエル人は考えた事はあるのか」
 イスラエル、パレスチナ討論会でのお決まりの双方の意見です。

 パレスチナ人のサジャの言葉で、参加者はしばらく沈黙しました。
「日本、綾部にいる時、私はイスラエル人ともうまく、やっていけるかもしれないと思いました。でも家に帰り、日常の生活に戻ると、やっぱりイスラエルとの共存は無理かもと考えるようになりました。」

 

 

 

 

 

 

 

 


                     向かって左端の女の子がサジャ


 

「川をこえる橋」
 

 4月13日、イスラエル第3の都市ハイファから南東50キロ、アラブ人の 多く住むカラという村を訪れました。
この村に『川をこえる橋』という学校 があります。(写真下)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 エルサレムにあるハンド・イン・ハンド(手に手をとって)というNGO によってイスラエル、パレスチナの平和的共存を担う次世代の人材育成をめざして設 立されました。

  幼稚園から小学校3年生100数名のユダヤ人、アラブ人が同じ教室 で同数ずつで学んでいます。
 それぞれのクラス担任にはユダヤ人、アラブ人教師があ たります。またすべての授業はユダヤ人、アラブ人教師がそれぞれヘブライ語とアラビア語で教えます。 たとえば算数の授業は最初の15分はヘブライ語でそして次の15分はアラビア語でというように進められます。

 1年間で生徒は両方の言語を理解出 来るようになります。お互いを理解するにはお互いの言語を理解しなければならない と考えているのです。

  3年前に設立されたこの学校は年々規模が大きくなり、今年2006年には200人規模の学校になるそうです。この種の学校は、エルサレムとガリラヤにもあるそうです。

 子供を『川をこえる橋』に通わせている母親のカーメルさんに話を聞く事ができました。

 『私達の世代は生まれた時からお互いの偏見を持って育ってきました。自分達の次の世代に、そのような偏見を持たず、お互いの言語と文化を理解する子供達を育てる事、 またそのような環境を作り上げる事が平和を築く最も確実な道だと思います。』 

 

 そして彼女は次のように言いました。
 『我々の世代での平和はあきらめました。でも次の世代には是非本当の意味での共存 実現を願います。またその強い願いのもと私達は子供達をこの学校に通わせているのです。』

 ユダヤ人、アラブ人の子供達が一緒に遊び、無邪気に笑っている姿を見て、平和の意味を改めて感じた一日でした。

 

                     (写真左)仲良く遊ぶユダヤ人の男の子とアラブ人の女の子

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その25)主任研究員 矢野裕巳

「大本、ユダヤ教の婚礼」

 大本から代表を

 2005年1月、大本国際部に1年間留学し、大本のよき友人である、ルース・ライ ネル嬢から出口紅大本教主へ結婚式の招待状が届きました。非公式にメール等でも国際部を通して教主様のイスラエルへのお出ましへの打診が何度かありました.

  結局 御公務のスケジュール調整がつかず、教主様の御出席は実現しませんでした。綾部とエルサレムの友好関係の架け橋としての彼女の現在までの功績を評価され、教主様には鹿子木旦夫総務(当時)を大本代表としてイスラエルへ派遣される事になりました。通訳として、私も同行しました。

 

                                           

 

 

 

 

 

 

 

 

                                             写真:鹿子木旦夫・大本総務(当時)とデービッド・ロゼン師

               二人が手にしているのは、ユダヤ教婚礼の伝統にのっとった新郎から新婦への結

               納書:馬○頭、羊○頭、牛○頭などど書かれてある。

 


「至福の時でも」

                      2005年4月8日、ルース・ライネル新婦、リロン・シェバック新郎 

                    (写真左)の婚礼はテルアビブ郊外のライネル家で執り行われました。

                      ユダヤ教からは、ラビであるデービッ ド・ロゼン師が、大本から

                     は、鹿子木旦夫宣伝使がそれぞれ立ち会いとなり、大本、ユダヤ教   

                     の合同司式による結婚式でした。

                      式はおよそ日本人には考えられない程カジュアルなもので、ロー

                     ゼン師のお話で始まり、ジョークを交えて新郎、新婦を激励しなが

                     ら、お話と賛美歌で式が進められていきます。
 

 

「新郎の誓いの言葉、ワインによる祝福」
 
                      次に鹿子木総務が『結婚式祝詞』を綾部の方角へ向かって奏上

                    (写真左)、この日の為に教主様に御揮毫いただいた結納短冊の交

                     換、オリーブの枝に結んだ短冊のお歌を鹿子木総務が朗詠。朗詠の

                     あとそれぞれの短冊を新郎、新婦に手渡す。(写真下)。







 

 

 

 

 

 

 

                      天津祝詞(あまつのりと)奏上後、教主様お手造りのお茶碗で一

                     服の薄茶を新郎、新婦二人で分かち合いました。(写真左)

 

 

 

 

 

 

 そして教主様からのメッセージと祝福の言葉を披露して大本の祈りを終えました。

 婚礼の式は新郎がガラスコップを足で踏み砕くことで終了します。砕かれたコップは 西暦70年ユダヤ王国崩壊とともに破壊されたエルサレム第2神殿をたとえています。 ユダヤ民族のこの屈辱をたとえ至福の時でさえ決して忘れないことの証しだと聞きま した。



「皆様は幸運ですよ!」
 

 式のあと、集まった参加者に対してデビッド・ロゼン師は自身の大本との関わりを簡単に説明されました。また『ユダヤ教と大本の合同の婚礼は、歴史上初めての出来事だと思います。大本の美しい祈りに立ち会えた皆様は本当に幸運ですよ』との挨拶で 締めくくられました。
 

 

                    (写真左)新婦とそのご両親

 

 

「あの短冊をみて!」

           この6ヶ月後、2005年10月8日、ルース・ライネル女史は教主様、総長にお礼の挨拶のた

          め、亀岡へ参拝。結婚式で短冊を頂いた時、鹿子木総務より次のような言葉があったエピソ

          ードを披露。
           「『結婚生活はいつもいつも楽しいものではありません。時には喧嘩をする事もあるでし

          ょう。その時にはこの短冊を見て、お互いに一歩譲っ て相手の立場を考えるようにしてくだ

          さい。その為にこの短冊は是非、家の中でよく見える場所に掛けてください』
           私達は、もうすでに喧嘩になりかけた事が数回あります。その時お互いにこう言うので

          す。
           『あの短冊をみて!』」

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その26)主任研究員 矢野裕巳

「ガザ撤退」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 元来イスラエル国家は1948年の独立以前から、 つまり19世紀の終わりから現在のイスラエルの地にユダヤ人が入植する事から始まりました。
 ここで考える入植地とは、1967年第三次中東戦争でイスラエルが占領したヨルダン川西岸とガザ地区に建設されたユダヤ人居住地域です。占領地のユダヤ化を狙って、 パレスチナ人地域を包囲する形で作られています。ただ、将来パレスチナ国家となる であろうこれらの『占領地』は当然イスラエルでは『管理地』という名称で呼ばれて います。

 2006年3月の総選挙で、カディマが第1党になるまで、イスラエルは労働党とリクード党が2大政党として争ってきました。労働党は平和をすすめ、リクード党は和平促進に熱心ではないとの一般的な認識がありましたが入植地は労働党の政権時に始ります。イスラエルは『防衛的観点から入植が始った』と主張。パレスチナ側は『最終的に国境が決まる時にイスラエルに有利な既成事実づくりである』と考えています。 西岸には、約130ケ所の入植地に20万人の入植者が住んでいます。そして2005年 夏の撤退前のガザにはおよそ17ケ所の入植地に7千人のイスラエル人入植者が 住んでおり、その10km×40kmの土地に100万人以上のパレスチナ人が住んでい たのでした。


   

「交渉カードは手に入れたが」
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 1967年の第3次中東戦争で、イスラエルは西岸、ガザに加え、シナイ半島、ゴラン高原を占領しました。
 周囲に自国の存在を認めない国々に囲まれたイスラエルが手にした交渉カードでした。シナイ半島返還によりエジプトと国交樹立を成立させた事を除けば、占領地返還により近隣諸国と共存という交渉もうまく進んでいません。占領が40年も続くとは当時のイスラエル指導者は決して想像していなかったでしょう。 


 

「40年の占領」
 

 国の将来については人の数だけ意見が分かれるといわれます。とりわけ2人寄れば、3つの政党ができるというイスラエル人の特質から考えても、イスラエルの入植政策には様々な意見があります。神がイスラエル民族に約束された土地であり、それを手放すことは神の御意志に反するのであると考える人達もいます。

 ただ一般に誤解され ているほど、このような宗教的シオニストの数は多くありません。大半の人々は占領地を返し、安全を確保したいと思っているのです。単純に言い切る事は困難ですがあえて、イスラエルの占領がこのように長く続いたのは、パレスチナ側にイスラエルと命がけて交渉し決断出来る指導者が出なかったからで、長くパレスチナ人を代表したアラファトにはそのチャンスは皆無ではなかったと私は理解しています。


 

「ガザ撤退の本当の理由」
      

 2004年10月、イスラエル議会はシャロン首相提唱の『ガザ撤退法』を採択。その10ヶ月後2005年8月15日に退去命令が出され、8月23日には入植者退去が成功裡に完了した事を歓迎する町村外務大臣談話が日本からも発表されました。

 6日戦争(第三次中東戦争)で得た占領地は手離さないというリクード党の信条に反する行動を決定したシャロン首相は、平和を求める政治家となったのでしょうか? 首相に座れば、今まで見えなかったものが見えるようになったというシャロン首相の言葉もよく知られています。現実には平均して入植1家族を守るのに10人から20人の兵士を配置しなければならず、防衛コストについていけない現実がありました。 一方的ガザ撤退はシャロン首相の平和への転向ではないと思います。交渉相手がいないなか、入植者の安全を守るための経済的負担がますます増え続ける事が本当の理由 ではないでしょうか。 

 和平実現の為に痛みを伴う譲歩を決断したというイスラエル政府の見解は、ガザ撤退 の真意を意図したものではないと思います。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その27)主任研究員 矢野裕巳

「想定外は想定内」

 国際情勢の把握

 国際情勢は刻々と変化し、世界がどのように進むのかを把握する難しさは誰もが認め るところです。今回は、中東、パレスチナ問題を研究する世界の情報機関や研究所が 完全に把握できなかった2つの事柄を考えたいと思います。

 1つは、誰にでもわかるパレスチナ問題(その26)でも取り上げた2005年8月のイスラエルの一方的ガザ撤退に対する反対運動。もう1つは2006年1月25日に行われたパレスチナ評議会選挙(国会に相当)の結果です。



「民主主義の成熟度」

 2005年8月15日に退去命令、そして23日に完了されたガザ撤退は、ほとんど の専門家の予想に反した平和的撤退であったのではないでしょうか?もちろん撤退 に反対するデモ行進、立ち退きに反対する入植者及びその支持者達とイスラエル軍との小競合いがなかったとはいえません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 1982年のシナイ半島撤退と比較すれば、 宗教的思い入れの深さゆえ、ガザ、西岸北部の1部からの撤退はかなりの困難と犠牲を伴うという考えが強調されすぎていたと私は考えています。言い換えれば、シナイ 半島はイスラエルの約束の地ではありませんが、ガザ、西岸は、聖書に出てくるイスラエルの地なので、それを信じるユダヤ人や入植者から命がけの反対があるとの予測でした。もちろん撤退が予想以上にスムーズに進んだのは、周到に準備された軍隊の入植者への態度やこれまでの入植者と軍との信頼関係等様々な理由がありました。

 私は、マスコミその他で語られるイスラエルのイメージがいかにも一部の宗教的原理主義者を象徴し過ぎていると思います。神からの約束の地を決して手放すべきではな いと考える人達の数は現実にはそんなに大きくないのではないでしょうか? 今回の平和的ガザ撤退はイスラエルの民主主義の成熟度が世界の中東研究者が思う以上に高かったことに起因するのではないでしょうか?



「1番驚いたのはハマス自身」

 同様に、2006年1月25日、国際社会が注視するなか、複数政党によるパレスチナ評議会選挙が民主的に行われ、イスラム原理組織ハマスが第1党になりました 。

 

 

 

 

 

 

 

            写真中央の人物はイスマエル・ハニヤ・パレスチナ暫定政府首相(当時)AFP通信
 

 

 ハマスの対イスラエル綱領が話題の中心になり、パレスチナ和平プロセスの頓挫がクローズアップされています。

 しかしまずアラブ世界で初めての民主的な選挙が行われ、パ レスチナ自治政府を支配してきたファタファがその結果を受け入れ、民主主義のルー ルに則って政権交代が行われたのです。民主主義が唯一絶対的な制度であるかどうかは別の議論ですが、少なくてもパレスチナに民主主義が根付き始めている事は事実としてとらえるべきでしょう。

 ガザ撤退の予想同様、ハマスの躍進を予想する研究所は多くありましたが、第一党にまで躍進する事を予想する情報は少なかったと思います。 強力な野党として与党ファタファに対峙する対立軸を確立しようと目論んでいたハマ ス自身が最も驚き、最も当惑した選挙結果だったのではないでしょうか?

 ガザ撤退が予想に反してスムーズに行われた事とともに、まさに想定外は想定内。 先の読めないパレスチナ問題を如実に表わした出来事であったと思います。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その28)主任研究員 矢野裕巳

「圧力と譲歩」

 パレスチナ人はなぜハマスを選択したか

 前回でも述べたように、2006年1月25日のパレスチナ評議会選挙で 総議席132に対し過半数の76議席をハマスが獲得しました。現在のアッパス自治政府議長の支持母体であり、長年パレスチナを率いてきたファタハは43議席の獲得にとどま りました。

 武装闘争を通じてパレスチナ独立を勝ち取る方針を鮮明に掲げ、自爆テロによるイスラエル攻撃に深く関与してきたイスラム原理主義組織ハマスをパレスチナ住民は選択したのです。各国の世論調査によると、パレスチナ住民の過半数がイスラエルとの和平進展を望んでいるとの結果が出ています。

 

 

 

 

 


                                                            (写真左:2005年4月9日筆者撮影)

                      パレスチナ自治区ラマラ<ヨルダン川西岸地域の中心地>にある      

                     伝統文化会館/

                      ここで、パレスチナの子供たちが伝統舞踊を継承しようと稽古に

                     励んでいる。 (写真下:2005年4月9日筆者撮影)

 

 

 

 

 

 

 







 その同じ人達がハマスを投票したのです。 その矛盾について考えてみましょう。

1、ハマスは武装集団ですが、単なるテロ集団ではなく、ガザ地区最大の慈善、福祉組織でもあります。イスラムの相互扶助の精神にのっとり貧困層のための病院や学校を経営しています。ハマスは基本的にイスラム慈善団体で、地域住民には有難い存在なのです。

2、貧しい人達の医療やさまざまな教育の援助をしていること。これがパレスチナの人達の支持を得る理由で、単なる強硬派ではないのです。

3、長年パレスチナ暫定政府の主流派であったファタハは貧困層を解消する具体的政 策を行わなかった。

4、ファタハが中心の自治政府内の腐敗。日本を含む国際的支援の無駄遣いや着服、 縁故主義などがはびこり、一般の住民の暮らしの改善は見られなかった。

5、現状の政治体制に不満を募らせていたパレスチナ人に対して『腐敗撲滅』を掲げたハマスが選挙に圧勝した。

 以上ファタハに対する反感がハマスへの支持として選挙結果に現われました。しかしハマスに投票した多くのパレスチナ人はハマスのテロ行為を支持したわけではないのです。

 本当の支持理由がどうであれ、正当な選挙でパレスチナの人達はハマスを選択したのです。ハマスの掲げる対イスラエル政策

1、イスラエルの存在を認めない

2、武力闘争によりイスラエル占領と戦う

3、いままでの双方で達成した和解と妥協の道、二国家共存案を受け入れない

 これらの政策を変えない限り、ハマス政権は国際社会からの援助を受ける事ができず、 パレスチナ人の生活は悲惨な状態に落ち入る事になるのは目にみえています。
 現実の問題として物の流通を考えてもイスラエルを経由してパレスチナに届くようになっ ています。

 そのような状況下でイスラエルを国家として認めないという主張を続ける事ができるとは思いません。ハマスが現実路線への転換を示すよう国際社会が圧力をかける事は必要でしょう。

 そして同時にイスラエルにも長期的展望にたった対パレス チナ譲歩を引き出す努力が必要だと思います。


 

 

 

 

 

 



                      (写真)伝統文化会館の壁画

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その29)主任研究員 矢野裕巳

「イラナ・ジンガー博士からのメール」

 現在(2006年8月3日)もイスラエルと、レバノンに拠点を置くヒズボラ(イスラム教シーア派武装組織)との激しい戦闘が繰り広げられています。双方に多くの死傷者がでています。

 特に、南レバノンでは多数の民間人に被害が出ています。この問題については、今後詳しく述べますが、 今回は大本の長年の友人であり、日本芸術研究者のイラナ・ジンガー博士からの筆者へのメール(2006年8月1日)をご紹介したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                     イラナ・ジンガー博士
 

 


 博士は現在ハイファ市にある海外唯一の日本専門美術館、ティコティン日本美術館の館長で、ハイファ大学東アジア学部講師でもあります。親日家の彼女は大本へも数回来苑されていて、2000年10月には大本本部で「日本文化との出会い」と題して講演もおこなっています。

 2000年7月、大本から、100名を超えるエルサレム訪問時には、この美術館で日本の夕べを開催。八雲琴や仕舞、茶道等大本信者による日本文化紹介を企画していただきました。当日は多くのハイファ市民が集まり、我々と共に楽しいひとときを過ごしました。

 今でもその夜の事をよく覚えていると語ってくれたハイファ市民の方と筆者は今年(20006年5月27日)の訪問時に出会う事ができました。 大本からの多くの参加者も当時の事をなつかしい思い出として記憶にとどめている方もおられると思います。

                       ハィファ(写真左)は、テルアビブ、エルサレムに次ぐイスラ

                      エル第3の都市でイスラエル北部の港湾都市です。 サンフランシ

                      スコに似た美しい平和な町です。

                       7月16日、レバノン南部からロケット弾がこのハイファに打ち

                      込まれ、9人が死亡、多くの負傷者がでました。

 

 

                       以下、彼女のメールです。

「友人である矢野さんへ

 親切で心暖まるメールをいただき有難うございました。

 私は何とか気持ちを切り替えて生きて行かなければならないと思っています。

 1日も早く普通の生活に戻らなければなりません。ハイファを含め、 北イスラエルの3分の2の人達が自分の家を離れ、南へ向かわなければなりませんでした。 そんな事で、ハイファはゴーストタウンの様相を呈してきました。

 イスラエルに住む我々は皆、無実の命が奪われている事に憤りを感じています。

 誰もがレバンノンで民間人の命が奪われている事に心を痛めています。 いずれ我々もレバノンに住む人達と平和に暮らせる日が来ると思っています。レバノンはヒズボラに完全に牛耳られていると我々は考えています。

 我々ユダヤ人が望んでいるのは普通の生活です。平和な生活です。しかし、テロは自分達の利益だけを考えるテロ組織によって利用されています。レバノンとパレスチナはこれらのテロ組織に利用されているのです。このような妨害がなければ我々はもうすでに平和な関係を隣人たちと共有できているはずです。

 くどいと思われるかもしれませんが、どうか信じてください。我々が望んでいるのはただ普通の生活を楽しみたい ということだけです。我々の隣人と平和に共存したいのです。

 我々は他の國を征服するなどの意図はありません。戦争は終わらせなければなりません。普通の生活に戻らなければなりません。テロの脅威をとりのぞく道がきっとあるにちがいありません。」

 イスラエルのユダヤ人からみた観点かもしれませんが、テレビで写し出されるイスラエル軍の攻撃の陰で それを決して肯定的にみていないユダヤ人も多く存在している事が理解されると思います。


 

 

 

 

 

 

 

 

 



   (写真)ティコティン日本美術館 

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その30)主任研究員 矢野裕巳

「亀岡プロジェクト」

 2003年綾部で始まった中東和平プロジェクトは、その後岡山、徳島、そして2006年の今年は亀岡が開催する事に なりました。

 世界連邦宣言都市が受け入れ先となり、イスラエル、パレスチナ双方の紛争地から10代の子供達を 日本に招く行事が今回で4年目を迎える事となったのです。

 すでに第1回の綾部プロジェクトについては詳しく説明しました(誰にでわかるパレスチナ問題その20から22)。私は岡山、徳島では最初の現地ペレスセンターとのつなぎ役を引き受けましたが、実質的にはほとんど接触はありませんでした。

 今回は綾部同様、大本本部のある亀岡がホスト役を務めるとのことで、 最初からこのプロジェクトに関わらせていただきました。

 2006年4月4日、栗山正隆亀岡市長が天恩郷を訪問。大本総長、本部長に正式に亀岡市がこの事業を引き受ける旨を説明。そしてこの行事をすすめるにあたり、是非大本が綾部プロジェクトで果たした役割を亀岡での取り組みでも同様に、またそれ以上にお願いしたいと依頼されました。

 その時広瀬総長からも、直接亀岡市長に大本にとってもこの事業の重要性を認識しておりできるだけの協力をさせていただくとの返答でした。

 翌月5月25日から6月2日まで亀岡市長スポークスマンの肩書きを頂き、私は現地イスラエルへ飛びました。パレスチナ紛争が今だ続く地から本当に子供達が日本に来れるのかを実際に現地窓口のペレスセンターと協議してくるようにとの市長のお考えでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

                                                              写真右がシモン・ペレス元イスラエル首相(元イスラエル副首相/

                                                              ペレスセンター創始者)/写真左は鹿子木人類愛善会事務局長(当時)


 日本を離れる前に市長からは次のような4点の指示と注意がありました。

1、紛争が続くなか果たしてイスラエル、パレスチナ双方の子供達が来日できるのかをペレス平和センターのトップとよく相談する事。

2、亀岡市にとって平和の問題を考える時、8月7日は非常に重要な日です。できればこの日に亀岡に滞在できる日程を組みたい事をセンターに伝える事

3、当然ながらイスラエル、パレスチナ双方の子供達が来日してこの事業が成立するのであり、一方だけの来日ではプロジェクトの成功とは言えない。あくまでも、我々はどちらかの側にたってその主張を指示するというような考えはないとの見解を明確にする。

4、その意味で可能な限り双方の子供達が同じ飛行機で、つまりパレスチナの子供達もテルアビブから関西空港までの飛行が可能なように努力して欲しい。


 ペレスセンターとの話し合いでは、在イスラエル大使館水内公使を始め大使館員の方々の協力もいただきました。上記の1~4に関して、ペレスセンター所長ロン・プンダック氏の私に対する直接の回答は次のようでした。

1に関して、イスラエル、パレスチナ双方が対立し紛争が継続しているからといって、すべての土地がそうではないのです。 双方といってもどこの子供達がこのプロジェクトに参加するかが重要なのです。

 実際平和推進というイメージを上げるため、まったく紛争と関係のないイスラエル人、パレスチナ人がそのような平和プロジェクトに招待されている事が あります。もちろん日本の方々がスポンサーになって企画されるので、その決定権はそちらにあります。

 しかしペレスセンターは、イスラ エル、パレスチナの紛争和解を目的として設立されたNGOなので、まったく紛争 に関わらない地域の子供達を招くプロジェクトに協力する事は難しいとの意見でした。

2に関しては亀岡での8月7日の意味を説明すると、そのような日に双方の子供達が亀岡の市民の方々と交流できる事は素晴らしいとの回答でした。

3、に関してもその考え方に同意を得ました。

また4に関しては非常に難しい状況ですが努力するという説明でした。

 亀岡プロジェクトがまさに準備最終段階で困難に直面した時、この時の3と4に関する話し合いが大きな意味を持ってくる事になるのです。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その31)主任研究員 矢野裕巳

「亀岡プロジェクト2」

 現在進行形の紛争地から

 2006年6月3日、私のイスラエル出向からの帰国翌日、亀岡市は正式に中東和平プロジェクトin Kameoka 実行委員会を立ち上げることを公表しました。

 イスラエル、パレスチナの子供達(14歳から17歳まで)それぞれ5名づつ。そしてイスラエル、パレスチナ双方からそれぞれ1名の付き添い。また団を代表してペレスセンターから1名で合計13名の招待を決定しました。

 誰でもわかるパレスチナ問題(その30)でも書きましたが、子供達は、テルアビブの現地窓口であるペレスセンターの強い意向でまさに現在進行形の紛争地であるスデロット(イスラエル)とガザ(パレスチナ)から招待することになりました。



「そんな状況であっても、そんな状況だから」

                    2005年夏、イスラエルのガザ撤退後、すでに本紙で紹介したように、

                   パレスチナではイスラエル壊滅を唱えるハマス政権が樹立されます。

                    イスラエル撤退後のガザから手製の簡易ロケット砲であるカッサムロ

                   ケットがイスラエル領内に撃ち込まれ、その反撃としてイスラエルは近

                   代兵器でガザを空爆するという事態が続いていました。

                    そのカッサムロケット弾がもっとも撃ち込まれているのが、ガザとの

                   境界線にあるスデロットです。

 

                    5月29日、私がスデロットを訪問した時にも、3発のロケット弾が飛ん

                   できました。ちょうど1週間前の砲撃でスデロット高校の屋根に穴があ

                   いていました。

                    スデロット市の教育委員長ミリアム・サシー女史はそんな状況であっ

                   ても、また、そんな状況だからこそ是非スデロットの若者に亀岡でガザ

                   の青年と交流してもらいたいと熱く筆者に語ってくれました。

                    もちろん父兄のなかには、遠い日本へ子供を送り出す事、また望まぬ

                   ことながら紛争相手となっているパレスチナ人の子供達との交わりを懸

                   念する人もいると 率直に話してくれました。

                    ガザ地区の父兄もまた同様の危惧をかかえていました。

                    サシー女史に亀岡市長のメッセージをお渡ししました。栗山市長から

                   の、「亀岡市は精一杯、我が子を預かるような気持ちで皆さんをお迎え

                   します」との伝言を伝えました。

 持参の亀岡市の英文パンフレットを贈呈しながら、私はこの日の為に詰め込んだ亀岡市の概要を説明しました。女史は最後に改めて亀岡プロジェクトの意義に賛同され自分が責任を持って、このプロジェクトにふさわしい子供達をペレスセンターと共同で選抜し亀岡へ派遣すると約束してくれました。



「ガザから選抜の勇気」

 ガザ対話センター所長イサム・シード氏とは5月30日、午前10時、ペレスセンターで面談しました。

 ガザから通常2時間で到着できるテルアビブに8時間かけて、シ-ド氏は出向いてくれました。検問所で5時間以上の足止めを受けたそうです。

 ペレスセンターへ頻繁に訪問し、平和交流のセミナー等で多くのイスラエル人の友人を持つシード氏でもガザ出域にこれほどの困難を伴う事を私は実感しました。

 昼食を挟んでシード氏とは3時間の面談となりました。冒頭、遠く日本からこの平和プロジェクト実現のため、人を派遣された亀岡市長に感謝するとともに、 亀岡プロジェクトのパレスチナからの招待者をガザから選抜してくださる勇気と決断に敬意を払うと述べられました。

 テルアビブやエルサレムを見ればどこに紛争が存在するのか解らないでしょう。実際に現在のパレスチナ紛争が日常的に展開するガザ、スデロットこそ紛争地でありそこの子供達は目の前の鉄条線の数十メートル先にお互い暮らしていながら出会う事はないのです。遠く離れた日本で彼らが出会うチャンスを作って下さる日本の皆さんに感謝するというシード氏の言葉の重みを強く感じました。

 スデロットに住む彼のイスラエル人の友人が最近スデロットを離れたそうです。彼の子供が繰り返されるカッサムロケットの警報で眠れなくなったからです。その事をパレスチナ人として非常に申し訳ないと語ってくれました。

 しかし、イスラエルの容赦ない軍事報復によってガザの生活が完全にマヒしている現状も是非日本の人々に知ってもらいたいと述べられました。

 スデロットのサシー女史同様、亀岡プロジェクト参加にふさわしい子供を選抜し亀岡に送ると約束してくれました。



「8月5日に日本到着を」

 現地、ペレスセンターとの話し合いの中で、決定しなければならない事は日程の決定でした。

 8月7日という亀岡にとって平和を考える意味で重要な日に亀岡市民との交流大会を持ちたいとの亀岡市長の考えにペレスセンターはもちろん、 スデロット、ガザの責任者も賛同してくれました。

 大本の瑞生大祭の日でもあり、多くの信者さんが全国から参拝されるなか、大祭後の午後の集会には是非大本の信者さんも参加できるようにとの話し合いが亀岡市と大本本部で持たれるようになりました。

 日程については、8月5日に関西空港へ到着し、亀岡、東京と移動し8月11日に成田から帰国する事が決まり、いよいよプロジェクトへの 本格的な準備が始まりました。  

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その32)主任研究員 矢野裕巳

「亀岡プロジェクト3」

 検問所は今日も開かなかった!

 2006年6月、亀岡実行委員会設立後も、現地パレスチナの情勢は好転するどころか、まさに全面戦争の様相を呈してきました。

 6月25日、パレスチナ武装勢力は、ガザ南部境界の通行所にあるイスラエル軍監視所を襲撃。イスラエル軍兵士2名を殺害、1人を誘拐。イスラエル軍は、拉致された兵士の解放とガザ地区からの簡易ロケット砲(カッサムロケット)発射への対抗として、ガザ北部及び中部に進攻。また、連日、ガザ地区内に空爆を繰り返し、パレスチナ暫定自治政府の建物も破壊されました。

 7月12日、シーア派武装組織ヒズボラがイスラエル・レバノン国境で8人のイスラエル兵を殺害し、2人を誘拐。 これに対し、イスラエル軍はレバノン南部、ベイルート国際空港、シリアへの主要道路を攻撃。その圧倒的な戦力でレバノン全土への攻撃を続け、ヒズボラの軍事拠点及びその支援インフラを徹底的に破壊しようとしました。イスラエルの攻撃で多数の民間人死傷者がでました。またイスラエルもハマス(ガザ)とヒズボラ(レバノン)との両面作戦を同時に考えなければならなくなりました。とりわけ、イスラエル領内に打ち込まれるヒズボラからのロケット弾の被害はイスラエル第3の都市ハイファを始め、北部人口密集地にかなりの死傷者を出す結果となりました。


 そのような情勢の中でも、ガザ、スデロットからの参加の準備が現地でも、亀岡でも着々と進められていきました。 8月5日の来日に合わせ、航空チケットの手配や日本でのプログラムの最終決定がなされました。7日のガレリア亀岡での市民との平和集会には、瑞生大祭参拝後、大本信徒も参加できるよう配慮されました。また前夜の大本愛善みろく踊り大会には、全国から参拝の信徒と共に、イスラエル、パレスチナ双方の子供達10名も踊りの輪に入る計画が考えられました。

 スデロット(イスラエル)、ガザ(パレスチナ)から、それぞれ5名の自己紹介文がこのプロジェクトに参加する意気込みと共に実行委員会へ送られてきました。


 イスラエル、パレスチナの参加予定者のそれぞれ1名の紹介文を紹介します。

サギー。イスラエルの16歳の男の子。
「過去5年間に1000発のカッサムロケットがガザから撃ち込まれました。私達は恐怖の中で生活しています。 家でも外でも学校でも常に恐怖と共に生きなければなりません。私は誰1人、犠牲にならないように神さまにお祈りしています。 パレスチナ人も問題解決を暴力ではなく話し合いで解決できるように努力して欲しいと思います。一生懸命勉強して将来は立派な建築家になりたいと思います」

アリー。パレスチナの17歳の男の子。
「ある放課後仲のよい友人と帰宅していました。友人と別れた直後、 大きな爆音があり飛行機からのミサイルで多くの人が被害にあったようです。 怖くなって走って家へ帰ろうとしましたが、先ほど別れた友人の事が気になり、 恐る恐る着弾地 点へ行くとそこには友人のかばんが、そしてそこからそんなに離れていないところに友人が倒れていました。 ・・・大切な友人を失い涙が止まりませんでした。なぜ、イスラエルの子供たちと平和に生きていけないのか?そうなれるような大人に自分はなりたい」

 

 

 

 

 





                     写真はラマラの検問書(筆者撮影)

 現地の情勢が好転しないなか、ペレスセンターから、7月30には、閉鎖されているラファファ (ガザとエジプトとの境界にある検問所)が開くとのかなり確かな情報が送られました。 また同時にイスラエル外務省との交渉で、イスラエル側との境界線にあるエレツ検問所を通り、テルアビブからイスラエルの子供たちと出国する方策も模索されました。 この計画では、栗山亀岡市長自ら、東京の外務省に電話で協力を要請。本省からの要請を受けたテルアビブの日本大使館も全力で対処することを約束してくれました。

 高い確率でラファファの検問所が開くとの情報にも関わらず、8月2日になっても検問所は開きませんでした。イスラエル軍の許可なしでは検問所を通る事は出来ず、国連関係の人を含め約3000名が検問所に並んでいました。
 ガザからの付添人、イサム・シード氏と携帯で何度も状況を確認するが、彼は繰り返し検問はまもなく開くとの 情報を得ていると回答。
 ただ8月5日に関西空港へ到着するためには、現地時間3日午前9時(日本時間午後3時)の段階で検問所が開かなければ難しいとの結論でした。 検問所を通っても、そこからカイロまで車で約8時間かかり、8月4日のカイロ発関西空港行きの飛行機に搭乗するにはこれがタイムリミットでした。

 8月3日午後2時30分、約束の時間より30分早く、ガザのシード氏から電話がなりました。
 「検問所は今日も開かなかった」  

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その33)主任研究員 矢野裕巳

「亀岡プロジェクト4」

 検問所が開いた!

 ガザからのパレスチナ代表が来日出来ないことにより、亀岡プロジェクトの中止が決定されました。すでに出国の準備体制が完了していたイスラエルの代表に連絡しなければなりませんでした。亀岡実行委員会にもプロジェクト中止を正式に了承いただかなければなりませんでした。 同時に取材を予定していた、新聞社やテレビ局への伝達もあり、プロジェクト中止の残念、無念さを実感として受け入れる間もない忙しさでした。

 翌日の朝刊紙にも亀岡プロジェクト中止の記事が発表された8月4日。夜8時過ぎ、私の携帯が鳴りました。

 ガザのイサム・シード氏(写真右)からでした。

「検問所が開いた。今なら出域できる!」

 聞きとりにくい会話は雑音の混じった音波の悪さだけでは

ありませんでした。温厚なシード氏が、明らかに興奮していま

した。2度、3度、いや4度、5度かもしれません。

 私は同じ質問を繰り返しました。「本当に検問所は開いたの

か?」「今目の前の検問所が開いている、いまなら出れる。す

ぐに許可をくれないか」と同じ言葉を何度も繰り返すシード氏。

 イスラエルの代表にはもう中止を伝えた。彼らはもう空港の

あるテルアビブからスデロットの自宅へ戻っている。航空チケ

ットもキャンセルしている。しかし、待ち続けた検問所が今開

いたのだ!
 もう1日早ければ! 
 「とにかく少し時間を欲しい。最終判断を市長に仰ぐので」と伝えた。

 それからが大変でした。実行委員事務局長であり亀岡市役所秘書課長の人見徹氏と深夜まで協議。「子供達が重い荷物を持ち、何日も検問所に並んで日本へ向かう準備をしてくれた事。そして今も日本の土を踏みたいと望んでいるガザの子供たちの希望は是非実現してもらいたい。ギリギリまで可能性を探るように」との亀岡市長の 強い意向でした。



「栗山市長の決断」

 最終的に日付けの変わった8月5日午前2時30分。やはり無理であるという結論を市長が下されました。以下の理由です。

1. 8月7日の午後、ガレリア亀岡で開催の市民との平和集会に是非、イスラエル、パレスチナ双方の出席が条件である。

2. 航空便を調べていけば、8月7日に亀岡へ到着する事は可能です。

 しかしこれからチケットを購入する事の問題。さらににガザの検問所からエジプトのカイロまで8時間車で走り、カイロに到着してからチケットを手配するとの事。チケットの手配にはエジプトの日本大使館にも協力依頼を打診しました。

3. それにしても時間が限られていました。すべてがうまく働いてようやく8月7日の午後に間に合う事ができるのです。

4. イスラエルの代表にも連絡を何度も取りました。こちらもチケットはすでにキャンセルしていました。加えて8月4日は金曜日。イスラエルは金曜、土曜は休日です。

5. こんどは、パレスチナ代表だけが来日してイスラエルからの代表は遅れて到着との不安もでてきます。


 2006年、8月4日の午後8時過ぎから翌日午前2時30分までの記憶は私のなかで一生消える事はありません。

 とりわけ、最後の栗山市長の次の発言は決して忘れる事はないでしょう。


 「私は個人としては、どんなことをしても、たとえ7日の式典に間に合わなく

ても、毎日朝4時に起きて重い荷物をもって検問所に並んでくれたパレスチナの

子供たちに日本の、亀岡の土を踏んでもらいたいと思っています。

 ただ、亀岡市として行事を開催する責任者としては、確実に双方が市民との

行事に参加できる事が確約できなければ、この段階で仕切り直しはできないです。

非常に残念です。」  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                         栗山市長(当時)

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その34)主任研究員 矢野裕巳

「亀岡プロジェクト5」


 8月7日午後2時から「平和記念式典・市民平和交流大会」は予定通り「ガレリア亀岡」を会場に開催されました。(写真下)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 亀岡市民850名、瑞生大祭に参拝にした大本信徒も多数参加。最終的に今回の亀岡プロジェクト中止を受けて、 今回のプロジェクトのイスラエルの世話役兼団長であるジブ・スタール女史は電話で筆者に次のように語ってくれました。

 「地理的に近いにも関わらず、イスラエルの子供達は同年代のパレスチナの子供がどのような状況に置かれているか、 どのような生活をしているか等についてほとんど知りません。多分パレスチナの子供たちもイスラエルの子供たちについては、 ほとんど理解していないと思われます。

 しかし、今回の事でイスラエルの子供たちは、同年代のパレスチナの子供達が、日本で自分たちと共に1週間過ごす為にこれほど努力し、希望してくれているのかを知り大変感動しています。

 その意味で日本の土を踏む事は出来なかった事は残念ですが、亀岡プロジェクトが取り組もうとされた精神は子供たちに伝わったと思います。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

             ジブ・スタール女史

 



 ジブ・スタール女史は8月7日の式典に次のようなメッセージを送ってくれました。
最後にそれを紹介して亀岡プロジェクトのまとめとします。

 「パレスチナの代表、イサム・シード氏に代わり、まず彼がメッセージを送る事ができない事をお詫び申しあげます。

 現在ガザ地区では電気が通っていません。そこで、私は彼の分まで御挨拶させて頂きたいと思います。ただもし現在のパレス チナ情勢が今とは違ったものであるならば イサム・シ-ド氏は素晴らしい挨拶をお送りする事が出来たと確信します。現在の情勢がそれを許してくれません。

 まず私達を日本にお招きいただく計画をたてていただきました亀岡市、また亀岡市長に心よりお礼申し上げます。 現実にはこの計画は実現しませんでしたが、そのご努力に感謝いたします。また中東に和平をもたらすべくこの地域に関心をもっていただいている事にも感謝いたします。 これは本当に感動的な事です。とりわけ現在の情勢下においてなおその関心を持続していただいていることに。

 ペレスセンターは1996年、前イスラエル首相シモン、ペレス氏によって設立されたNGO(非政府組織)です。

 我々の目的はペレス氏の理想を押し進める事です。中東地域に住む人達が協力と対話により平和を共に築くよう働きかける事です。 我々の活動はアラブ、イスラエルの双方の経済的、社会的利益に焦点を当てています。とりわけ、イスラエル、パレスチナ関係を活動の中心に置いています。 平和構築プロジェクトは国内のそして海外でのパ-トナーとの協力により進められています。たとえは、亀岡市やイスラエルの日本大使館等です。

 今回来日予定であった子供達は2つの地域からで、共に現在の紛争に深く関わっています。ガザはパレスチナ自治区にあり、多くの暴力の標的となっているところです。 またスデロットはイスラエル南部の町で多くのミサイル攻撃の標的になっています。

 子供達は紛争の苦悩や悲しみを代表するだけでなく、平和とよりよい未来に対する希望でもあるのです。

 この代表団の目的は本当に勇気あるこの子供達を通して、日本でなければ決してお互いに出会う事があり得ない機会を提供して頂くことでした。

 我々ペレスセンターはイスラエル、パレスチナ双方の子供や若者が出会い、交流する事でお互いの否定的なステレオタイプなイメージを払拭し、平和的対話を通じてお互いの肯定的な視点を育てたいと考えています。

 パレスチナ側の代表、イサム・シード氏、また来日予定であったスデロット、ガザからの子供達を代表して私はもう一度皆様にお礼を申し上げたいと思います。最後まで私達の来日を可能にするため多大な努力をしてくださった皆様に感謝を申し上げます。

 いつかかならず情勢が安定した時に皆様にお会い出来ます事を楽しみにしています。
 ありがとうございました。

 シモン・ペレス平和センター代表 Ziv Stahl(ジブ・スタール)」

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その35)主任研究員 矢野裕巳

「ジュベル・ムーサ(モーゼ山)」


 2006年11月29日、世界連邦日本宗教委員会主催、第28回世界連邦平和促進東京大会が国学院大学で開催されました。

 大会宣言では、「ユダヤ、キリスト、イスラムの聖山であるシナイ山での共同礼拝を再び世界の指導者に 呼びかけること」が表明されました。かつて1979年、1984年に合同礼拝式が執行されました。


 国学院大学での大会の1ヶ月後、12月30日早朝、私は鹿子木旦夫総務(当時)と共に地元ではアラビア語でジェベル・ムーサ (モーゼ山)と呼ばれる標高2,285メートルのシナイ山頂(別名ホレブ山頂)に立っていました。

 5合目にあるセントカテリーナプラザホテルから8合目まではややきつい坂道を約2時間半。 8合目から山頂へはごつごつとした階段を900段。12月30日午前2時30分、真っ暗な中、世界中からやってきたおよそ500人の巡礼者と共に山頂での日の出をめざして5合目から登山を開始しました。

 足に自信のない人には8合目までラクダが用意されていました。そのラクダが後や前からやってくるため、 崖すれすれに歩かなければならないところがあり、毎日かならず怪我人がでると聞いても驚きませんでした。 特に8合目からの階段は、雪が凍って滑りやすくあちこちで転んでいる人がいました。

 ユダヤ、キリスト、イスラムの 聖山であることから、信仰に熱心なかなり年配の方も多くいました。また多くの白人系、アラブ系に混じって韓国からのグループの多さに気づきました。韓国でのキリスト教の浸透が感じられました。

 大本メンバー約2名は当初、 日頃の運動不足と睡眠不足を考えラクダでの登頂を考えましたが、現地緊急ミーティングの結果自分の足で登る事に 決めました。鹿子木総務は現地案内人の青年に手をひかれ、どんどん前へ、かなり早いスピードで次々と前の人を 抜いていきました。
 私はまだまだ将来があるのでここで倒れるわけには行かないと考え無理をせず自分のペースで休憩を取りながら 登りました。

                      午前6時過ぎ、山頂へ到達。山頂は非常に狭く、とにかく寒い!

                     マイナス20度ぐらいだと聞きましたが 眼鏡が凍って何も見えない!
                      眼鏡の氷がほぼ溶けた頃日の出!一斉に歓喜の声がそれぞれの母

                     国語で発声されました。

                      この山が本当にモーゼが十戒を神から授かった山かどうか歴史的

                     な証明はされていませんが、この山なら神が契約を結ぶ山と決定さ

                     れても不思議ではないと感じました。今私が目にしているこの山の

                     神々しい風景はおそらく紀元前1250年頃も 変わらないのでは。

 御来光を拝んだ後、全員が一斉に下山。午前9時30分にはホテルに戻りました。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のそれぞれの信仰者が助け合って登山する姿をみて、 1ヶ月前に東京で表明された 合同礼拝としてのシナイ山の意味を考えながら、多少がくがくする膝を気にしながら、下山しました。



「パレスチナ人から視た中東和平への展望」

 11月29日東京大会での基調講演はアルクドゥス(エルサレム)大学のムンサル・ダジャーニ博士が 「パレスチナ人から視た中東和平への展望」と題して話されました。

 私は11月24日の成田到着から大会翌日30日の帰国までの1週間、博士の通訳、お世話係として行動を共にさせていただきました。

 博士はエルサレムでお生まれですが、米国やエジプト、ヨルダンでも長く生活された経験があり、バランス感覚にすぐれたパレスチナの論客という 印象です。 CNNを始め米国のメディアにも頻繁に登場する人物です。

 

 

 

                                                             (写真左)歓迎レセプションにて。ダジャーニ博士と故・廣瀬静水

                     世界連邦日本宗教委員会委員長(当時)

 ともすればパレスチナ紛争を一方的にイスラエル非難に終始するパレスチナ論客が多い中、 博士は問題の一端、いや半分はパレスチナ側に問題があるとの考えを公言される事に敬意を示したいと思います。

 また、2007年新年の教主さまご挨拶でもこの国学院大学でのダジャーニ博士の講演について述べられています。

 ダジャーニ博士との出会いや博士のパレスチナから視た中東和平への取り組みについては別の機会で詳しく述べたいと考えています。  

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その36)主任研究員 矢野裕巳

「大本大祭、大本歌祭りへ」


2003年夏の綾部プロジェクト以来、駐日イスラエル大使、パレスチナ代表またアラブ各国から、大本の大祭参拝、歌祭りへの参加が続いています。 今回はその様子を写真で紹介したいと思います。


                     2003年8月7日、大本瑞生大祭で挨拶するワリード・シアム駐日パ

                     レスチナ常駐総代表部代表(写真左)
                     人類愛善新聞2003年9月号にて取材

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 








                     2006年5月5日、大本みろく大祭で挨拶するエリー・コーヘン駐日 

                     イスラエル大使(当時・写真左)
                     人類愛善新聞2006年6月号にて取材






 

 

 

 


                     2006年11月6日、大本開祖大祭で挨拶するサミール・ナウリ駐日ヨ

                     ルダン大使(当時・写真左)
                     挨拶文





 

 

 

 

 

 



                      2007年2月3日、大本節分大祭で挨拶するヒシャム・バドル駐日

                       エジプト大使(当時・写真左)
                      挨拶文









 

 

「2006年4月30日、京都金剛能楽堂で歌祭りが開催」

                                                                ワリード・シアム駐日パレスチナ代表部代表は
                                                               『一つ土地 分けてさかゆる エルサレム永遠(とわ)の平和を 

                                                                 今ぞつくらむ』と献歌されました。

                                                                 その歌が最終的に国際部に送られて来たのが4月12日でした。

                      実はその2日前には次のような歌が届いていました。
                     『パレスチナ・イスラエルとも手を合わせ エルサレムこそ 

                      二国の首都に』 
 

                      文化、芸術は政治とは別の世界ですが駐日代表の立場ではその時期のパレスチナ情勢が歌にも影響されたのです。
当日は12日の歌が献歌されました。

イスラエル大使の献歌は次の通りです。 
『エルサレム 祈る人々 天の神 いつかこられる 愛と平安』 

(写真下) 京都金剛能楽堂で大本歌祭りの様子

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その37)主任研究員 矢野裕巳

「米国の役割、日本のアプローチ」


 

 

 

 

 

 

 

 

 

                     (写真左)大本本部で開催の「イスラエルの夕べ」
 

 

米国の役割

 世界の紛争解決の鍵を握るのは米国である事を否定する人はいないでしょう。

 パレスチナ問題解決にとって最も必要な事は、いかに米国がこの問題に深く関与するかであると思います。市民レベルの草の根運動の重要性を 認識し実践する事、また国連外交を機軸にする事は当然のことですが、 米国の公平な仲介がなければパレスチナ問題も実質的な進展はないと思 います。



米国はイスラエル偏重か?

 パレスチナ問題で必ず出てくる問題は、米国のイスラエルへの一方的擁護とも受け取られる行動です。

 国連の場でイスラエル非難に対する決議を出しても必ず米国が拒否権を発動するという新聞記事を読まれた事があると思います。

 米国のユダヤロビーの強さやキリスト教右派のイスラエル支持等もよく話題にのぼります。私自身はイスラエルやユダヤ人へのあまりにも固定 化された多くのイメージは誤解であり間違いであると思っています。

 2007年3月15日、大本本部で開催の「イスラエルの夕べ」でアビタル・ バイコビッチ女史は来日以来同じような質問を日本から受けて少々閉口していると語っていました。

「ユダヤ人は金持ち?」「ユダヤ人は頭がいい?」「ユダヤ人は米国を世界を支配している?」「イスラエル諜報機関は本当にすごいのか?」などです。

 文部科学省の奨学生として上智大学大学院博士課程で学ぶ彼女は頭脳明晰である事は確かでしょうが、金持ちでもなく、多分世界を支配している事実はないと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 

 

 

 

            

               アビタル・ バイコビッチ女史

 

米国でのタブー、それはイスラエル非難?

 イスラエルやユダヤ人に対するあまりにもお決まりの観念は偏見でしょう。しかし米国がイスラエルにとって最大の同盟国であり援助国であることは事実です。

 昨年2006年9月7日付け The Japan Times にLos Angeles Times 紙の記事が掲載されていました。

 ロサ・ブルックス、ジョージタウン大学教授のその記事の内容を紹介したい思います。「イスラエル政府の政策について批判的な書物を書いて みなさい、そうすればあなたは理解するでしょう。もしあなたが幸運な らディナーパーティに招待されなくなるでしょう。もしあなたがそれほ ど幸運でなければあなたはネオコン(新保守主義者)の専門家から、全面的攻撃を受ける対象になるでしょう。 狂信的反ユダヤ主義者として。

 米国で最大の権威をもつ人権組織所長ケン・ロスは2006年7月のイ スラエル・ヒズボラ戦争でのイスラエル軍の民間人への攻撃について、戦争犯罪にも等しいと人権の立場から警告しました。

 このコメントに対してロス自身と人権組織に対して即座に大きなバック ラッシュ(大衆の反発)がありました。テロリストの肩を持っている、テロリストを容認している、と。

 また保守系の新聞であるNew York Sun はロスこそ(ちなみに彼 はユダ ヤ人)ヒズボラ擁護の輩であり、反イスラエルの偏見の見本である、と 批判。

 現在の米国ではイスラエル政策を批判する事はユダヤ教の合法性そのものを否認することであるとまで言われるのです。」

 最後に彼女の記事の1部を原文で紹介します。
 In the United States today it just isn't possible to have a civil debate about Israel, because any serious criticism of its policies is instantly countered with charges of anti-semitism. ( 現在の米国ではイスラエルについての一般的議論を行なう事はできま せん。少しでもイスラエル政府の政策を批判すれば即座に反ユダヤ主義 者としてレッテルをはられてしまいます。)



日本の役割

 私はこの記事の主張がすべて正しいとは私は思いません。この記事に対する反対意見があれば是非紹介したいと考えています。

 ただ、パレスチナ問題に関するマスコミの論評に、ヨーロッパと米国ではかなりの違いが見られる事は事実です。

 ヨーロッパの中でも国内にアラブ系の移民が多いフランスや過去のホロ コーストという歴史を背負うドイツ等国内の事情がパレスチナ問題への 対応に足かせとなる場合も多いのです。

 私はヒシャム・バドル駐日エジプト大使の本年節分大祭でのスピーチを思い出しています。
「イスラエルからもアラブからも信頼を得ている日本はパレスナ問題解決において、欧米には出来ない役割を果たす事ができるはずです。」

 それは過去においてこの地域で植民地の歴史を持たず、両民族に過去の負い目を持たない日本が演じることのできる、イスラエル、パレスチナ双方への公平なアプローチであり、日本独自の役割ではないでしょうか。



 

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その38)主任研究員 矢野裕巳

「亀岡プロジェクト 最後の締めくくり」

 亀岡市長の約束

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 昨年8月に亀岡市が取り組んだ「中東和平プロジェクトin Kameoka」については5回に分けて紹介しました。 

 2007年8月7日の式典で、栗山亀岡市長は、子供たちが来日する事は出来ませんでしたが、皆様のまごころのこもった子供たちへのプレゼントは必ず届けますと市民に約束されたのでした。



2人3脚で

 プロジェクトの実行委員会解散の後も亀岡市秘書課長の人見徹氏とこの問題について模索していました。
どのようにプレゼントを子供達に手渡す事が出来るのか? 市長の強い願いをどのように実現できるのか? 現地の情勢を考えながら、一番良い方法は何かと何度も協議しました。 最終的にお土産はテルアビブの日本大使館へ送り、 現地でジョイントプログラムを組んで子供たちの手に渡るように依頼する事になりました。




現地の協力

 多くの人たちの協力のお陰で、2007年3月25日(日)テルアビブ日本大使館 広報文化ホールで亀岡へ来る予定だったイスラエル、パレスチナそれぞれ5名が初めて顔を合わせました。
大使館のパレスチナ班専門調査員の佐藤純子さんには、 ペレスセンターとの折衝を含め多大な協力を頂きました。  私が昨年春、亀岡プロジェクトの打ち合わせに現地を訪問した時にもお世話になっています。 ペレスセンターのインバル・ヨハナン女史もイスラエル軍や参加者との調整に休日返上であたってくれました。




またも検問所の封鎖が

 イベントの後、佐藤専門員から次のような連絡が亀岡市に入りました。
「亀岡の皆様がご準備くださったお土産を直接イスラエル、パレスチナ双方の青年に お渡し出来ました事を嬉しく思います。 検問所の一時封鎖の為、6時間の予定が1時間弱というとても短いものになりました 。でも、スデロットとガザの青年が出会う事自体が、貴重かつ重要な事であり、亀岡の皆様の熱い思いがこれを実現させたと考えています。」




市長会見

 2007年4月11日、市長の定例記者会見で、このジョイントプログラムを公表しました。その中で市長は「市民との約束を守り、 無事、記念品を子供達に渡す事が出来て嬉しく思います。これをもって昨年夏の一連の中東和平プロジェクトの終わりとします。」と発表されました。タイミングよくその日の朝、ペレス平和センター所長ロン・プンダック氏からメッセージが 届いており、私がその内容を発表させていただきました。
このメッセージを含め3月25日のイベントは翌日の朝刊に掲載されました。

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 


   
      栗山正隆亀岡市長                  記者会見の様子




ロン・プンダック氏のメッセージ

 最後にプンダック氏のメッセージの要約を紹介します。


「親愛なる栗山市長様。ジョイントプログラムへのご支援有難うございました。ご存知のように地域の不安定情勢のため、プログラムは中止になりました。 亀岡から、お土産を参加予定者に送りたいとの申し出を頂いた時、これは青年たちが出会う絶好の機会であると思いました。もちろん多くの困難を伴うのですが。検問所での大幅な遅れの後、 パレスチナの青年はイスラエルの青年と対面しました。 お互いに出会いたいという決意、お互いに対話できるというまれな機会への 強い願望を示してくれました。この日の会合は日常の惨事を少しく忘れ、日本文化を学ぶ機会となりました。着物も着る事ができました。そして日本の香りを味わいました。素晴らしい贈り物に心より感謝申し上げます。それらは遠い道のりを経て手渡されました。彼らはかばん1杯にお土産を詰めて帰路につきました。しかし何よりも重要な事は彼らが新しい視点で隣人を受け入れた事です。 今後とも良きパートナーとしておつき合いさせていただけます事を念願しております。」

ペレスセンター所長 ロン・ブンダック博士

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その39)主任研究員 矢野裕巳

「建設的あいまいさ」


                     アルグッズ(エルサレム)大学教授ムンサル・ダジャー二博士と筆者
                     東京国学院大学で

                     

 

 

 

 

 



Constructive Ambiguity 

 元米国国務長官、ヘンリー・キッシンジャー博士の造語である ”建設的あいまいさ”とでも訳せるのでしょうか?  

 アラブ・イスラエル外交に従事していた頃に博士がよく使った言葉です。善か悪か、また 白黒をはっきりさせるという西洋的、一神教的概念からは逸脱した言葉ではないでしょうか? キッシンジャー博士は中東紛争解決には欧米の尺度だけでは解決できない事を現実の外交舞台から認識していたのでしょう。


ワサティア 

 平成18年11月29日、国学院大学での講演 http:// www.oomoto.or.jp/Japanese/jpTopics/daja-ni.html の中で、ムンサ ル・ダジャーニ博士は今後の紛争解決において、「ワサティア」をキーワードとして提案されました。「ワサティア」とはコーランから引用された表現で「正義と道の中央」という意味だそうです。つまり、日本流の「間を取って解決する」に近い発想だと思います。
 AとB が2つの違った考えで対立する時、どちらか一方が正しいのではなく、A,Bの対立する点の真ん中を選択する、つまりお互いの譲歩を基に解決を図るという考えです。



日本流玉虫色決着 

 「日本人は物事をはっきりと述べない。その事が国際的に大きな誤解となって 国益を損なっている。」との話はよく聞かれます。 「日本人同士ではあいまいにしても解りあえる事も、文化や慣習の違う外国人とは、はっきりと自分の主張を述べなければ理解されない。」等の主張は特に国際的分野で活躍する人達からよく聞かれます。もちろんその通りで、公の場でも出来る事と出来ない事、自分の考えをよりはっきりと述べる事は今後の日本人にとって重要な事でしょう。しかし、はっきりと常に自己主張する人達の中で、100%の平和的解決がなく行き詰っている時、 日本流の玉虫色の決着が案外残された紛争解決の選択肢なのかもしれません。


コップの半分には水が入っていない

   国際的な圧力と協力のもと、昨年2006年1月、パレスチナ総選挙が行われハマスが第1党になりました。イスラム原理主義組織ハマスが圧勝しましたが、ハマスは国際社会が要求する次の3つの条件を受入れませんでした。

1,イスラエルの存在を認める 
2,イスラエル占領に対する暴力の放棄 
3,これまでに締結されたイスラエルとの約束を遵守する

 国際社会注視のなか正当な選挙で選ばれたハマスであるが、この条件の受入れを拒否。パレスチナへの日本を含む西側からの援助は停止。イスラエル政府がパレスチナの代理で徴収している税収のパレスチナへの移転を停止。  パレスチナ経済は窮地に陥るのでした。単純には語れませんが自分たちの存在すら認めない政権と交渉は出来ないという イスラエルの立場を私は個人的には理解できます。民主的に選ばれた政権であってもコップにはまだ半分しか水が入っていません。



コップの半分には水が入っている

 今年2007年3月、国際社会の経済制裁解除と内部対立で治安が悪化したパレスチナの安定化をめざし、ハマスとファタファの連立内閣が発足しました。ハマスのハニヤ首相は対イスラエル強硬派を排除し、米国とパイプをもつ人材の登用もおこないました。ファタファのアッバス議長がイスラエル武装闘争の放棄を強調したのに対して、 ハニヤ首相は「占領に対する抵抗はパレスチナ住民の正当な権利である」と述べイスラエル承認は避けました。

 ただ、ここで注目は首相が将来のパレスチナ国家について 1967年の第3次中東戦争でイスラエルが占領した西岸、ガザ地区を領土とすると明言した事であります。イスラエル・パレスチナ紛争史において初めて大部分のパレスチナ人がイスラム原理主義者を含めて国際的に受入れられる1967年の国境を認めたことであり、この事は暗にイスラエルの存在を認めているのです。コップには確実に半分もの水が入ったのです。パレスチナ初の連立内閣はコップの半分を満たしたのです。あとの半分を満たすには西側諸国を始めとする国際社会の努力も問われるでしょう。これ以上のパレスチナ援助停止は、イスラム社会の穏健派から強硬派へのさらなるパワー・シフトが起こる危機をはらんでいるからです。
 冒頭のキッシンジャー博士の造語をもう一度考えてみたいと思います。  

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その40)主任研究員 矢野裕巳

「よりよい世界を目指して」

 今回は、2007年5月4日の教主生誕祭後に行われた、 サミール・ナウリ駐日ヨルダン大使による講演 「よりよい世界を目指して」の要約を紹介いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                              サミール・ナウリ駐日ヨルダン大使と筆者



 皆様こんにちは。先ず始めにこのような美しいところで、 厳粛なる日に皆様にお話させていただく機会を頂き感謝申し上げます。
 本日は外交官として、私の体験を皆様にお話するよう依頼されました。 大変大きなお役で、限られた短い時間でどれだけお話出来るかわかりませんが、 出来るだけ皆様を退屈させないように私のベストをつくしたいと考えています。

 まず私は外交官としてのスタートは東京のヨルダン大使館でした。もうかなり前のことです。アジアの最も西に位置する国からアジアの最も東に位置する日本へ赴任しました。私にとって大きな挑戦であり、大きな体験でした。当時の我々ヨルダン人にとって日本はトランジスターラジオの国であり、 ソニー、トヨタの国に過ぎませんでした。ところが日本に赴任してみて強く感じました。日本の美しさ、偉大な文化的遺産、そして何よりも礼儀正しく、親切で勤勉な人達に感銘しました。私達アラブにも偉大なる文化的遺産が残されています。

 日本に初めて赴任した時、強く感じ、また今でも固く信じている事ですが、我々は日本から学ばなければならないのです。 近代的テクノロジーと産業を発展させながら同時に文化的遺産を守り、復元させていく方法を。
 日本で外交官としてのキャリアをスタートさせた後は、 フランス、オーストラリア、スペイン、ニューヨークのヨルダン政府国連代表部、 中国、そして再び日本に帰ってきました。
 

 また、様々な外交使節団として数カ国を訪問し、国際会議にも出席しています。 振り返ってみればこれらの国での体験は私に多様な印象を与えてくれました。 スペインではスペインとアラブの文化がうまく混ざりあった豊かな文化を満喫しました。 生涯忘れられない思い出としてセビリア、グラナダ、コルドバ等が強く私の記憶に残っています。 オーストラリアは信じられないまでの自然の美しさで、神の恩恵に満ちた新しい広大な国です。 広大な砂漠と共に果てしない海、サンゴ礁、山々。 まさしく大自然そのものが、親切でゆったりした国民性を作り上げています。 中国が爆発的な経済発展を遂げるまっただ中で、中国大使に任命された事は幸運でした。あらゆる部門の急速な発展を目のあたりにする事が出来ました。 自分の目でしっかりと確認した驚くべき発展については詳しく何冊かの本にできるほどです。

 しかし、最も大きな体験はニューヨーク国連本部での仕事でした。 国連は世界機構と呼ばれていますが、まさしくその通りであると思われます。 国連の建物、組織には世界中の代表が世界の様々な問題を解決するために集まっています。 自分の国と自分が信任状を受けて派遣される国との二国間交渉では、両国における立場で物事を考える事があります。 しかし、国連での仕事は時に世界全体を1つとして考えているように感じる事があります。 世界を万華鏡を通して見つめるのです。万華鏡の位置を変えればおのずと物事を別の角度から見るようになります。 このように国連での仕事は次の二つに明白な洞察力を与えてくれます。
 1.国際問題の様々な側面そして我々の世界が直面する諸問題となる多様な要因
 2.世界が直面する諸問題、大量破壊兵器、グローバル化、環境問題等とその問題解決に必要な共通の解決策


 冷戦がまさしく終焉を迎えていた時、私は国連に勤務していました。 国連の役割が大きく転換する時期でした。 私達の中東での国際危機であった1991年、イラクによるクウェート侵攻時にも私はニューヨークにいました。 まさに歴史が動いた時期で外交官としての貴重な体験でした。
私は、様々な国での赴任体験から学んだ教訓を皆様と分かち合いたいと思います。

1.皆さんが外国へ行かれた時、単に自分の目を開いて美しい場所や美しい物を観賞するだけが重要ではありません。 自分の心や想像力を開く事がより重要なのです。 人々が自分たちの問題を異なった方法で対処している事に気づきます。

外国では同じ問題を自分たちとは違う方法で処理するのです。 心を開いて彼らのやり方に敬意を払うべきです。 けっして自分自身の固定観念から判断するべきではありません。 そうすればあなた自身の向上となり、あなたの学んだ事が他の人達の役に立つことになるのです。


2.私達は学校で歴史からその教訓を学び過ちを繰り返す事を避けようとします。 しかし世界の諸問題を見渡せば、私達が本当に歴史から学んでいるのか疑問に思います。 多くの時代に多くの場所で同じ間違いが繰り返され続けているからです。

3.あらゆる部門における近代科学技術の発展によって世界はいわゆる1つの村になっています。
ただ問題は本当に人々はより親密になってきたのでしょうか? それとも我々の心は今だ閉ざされているのでしょうか?
本当に考えさせられます。 コンピューターや携帯電話を使っている人達を見ていると。
確かにこれらは私達の生活そのものを容易にしてくれました。しかし本当に私達自身をより親密にしてくれたのでしょうか?

 コーヒーショップ、レストランまた道端で携帯電話に釘付けになっている若者をよく見かけます。 まるで携帯電話のほうが直接の対話より話し易いかのように私には思われます。 このような新しい手段の魅力を感じながら私達は同じテーブルに座っているのですが 実際にはコミニケーションは取れていないのです。 手を取り合いながらも心は、かけ離れていて、感情のネい抱擁をしているのです。
私は希望を失っているのでしょうか?
 そうではありません。希望があるから世界は進歩するのです。 希望を持つ事でより良い世界への夢を追いかけるのです。そしてその夢を成就する為に努力するのです。

 国連を始め多くの国際機関は人間で構成されています。 私達人類が一致団結してすべての人にとって繁栄と安全が保障されるより 良い世界を作り上げる道を探らなければなりません。
私達アラブには1つのことわざがあります。

 「たとえ小さくとも希望の舞台がなければ人生はあまりにも空しいものである」

ありがとうございました。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その41)主任研究員 矢野裕巳

「改めてパレスチナ問題の基礎から」

 2003年、綾部プロジェクトを始めるに際し、出来るだけ多くの綾部市民に このプロジェクトの意義を理解してもらおうと様々な努力が実行委員会を通して企画されました。 パレスチナ問題を理解する為の基礎講座も開かれ、私も何度か講師を務めました。 その時の資料としてこの「誰にでも解るパレスチナ問題」を15回分作成。 それをまとめたのが本誌の始まりです。
 16回以降は 本誌の連載として書き始め、今月号で41回目になりました。ここでもう一 度原点に戻り、誰にでも解るパレスチナ問題の基礎をもう一度考えてみたいと思います。



「パレスチナ問題の始まり」

 19世紀以降、ヨーロッパにおいてマイノリティー(少数民族)として迫害されてきた ユダヤ人が新天地を求めてオスマントルコ領内のパレスチナに入植し始めました。 入植したユダヤ人は1948年にイスラエルの建国を勝ち取りますが、 このために多くのパレスチナ人が難民化してパレスチナ問題が発生しました。

「パレスチナ」

 近代的な意味でパレスチナと呼ばれる地域は、現在イスラエルが領有している地域に 加えパレスチナ暫定自治区とされているヨルダン川西岸地区、ガザ地区を加えた地域に相当し、 現在ではパレスチナ自治区の地域を限定して指すことが一般的になっています。


「イスラエル人とユダヤ人」

  「イスラエル」の語源はヘブライ語で「神と争う者」の意味です。 旧約聖書創世記に表されているように、神と格闘したヤコブが神に与えられ た名前に由来しています。 1948年、5月14日に独立宣言し誕生した現代イスラエル国は大まかに言えば、 ユダヤ人とアラブ人によって成り立っています。
 700 万と言われるイスラエルの人口のうち20パーセント、およそ140万人はアラブ系イスラエル人です。 残りのユダヤ人をユダヤ系イスラエル人とは言わないのは ヨーロッパにおけるシオニズム(世界へ離散したユダヤ人が現在のイスラエル国へ戻ろうとする運動)の結果、 主としてユダヤ人によって建設された国家であるからです。 ただ、イスラエル人といえば自動的にユダヤ人を指す事ではないことは理解できると思います。



「アラブ人とパレスチナ人」

 アラブ人とは元来はアラビア半島に住むセム系の遊牧民族を指していました。 現在ではアラビア語を話す人々の総称として使われています。 パレスチナの語源はペリシテ人の土地と言う意味で、紀元前13世紀頃にペリシテ人が住みついた事に由来します。 つまりパレスチナ人とは パレスチナという、古代のカナン、現在のイスラエルの土地に住む人の事を 指していたのです。
 パレスチナ地方に住む人はすべてパレスチナ人で、京都に住む人は京都人というのと同じです。 元来パレスチナ人とはこの地方に住むアラブ人の事です。現在では近代以降世界各地から入植してきたユダヤ人に対して、 それまでこの地で暮らしてきたアラブ人をパレ スチナ人と呼んでいるのです。



「独立戦争?」

 2007年7月23日の読売新聞オンラインにエルサレム発の興味ある記事が載りました。 イスラエル教育省はイスラエルが「独立戦争」と位置づける1948年の第一次中東戦争は、 アラブ系住民にとって故郷から追放される「ナクバ」(破局)だったと記載した 小学校3年生向けの社会科教科書を、検定で初めて合格としました。 タミール教育相が7月22日、明らかにしました。
 イスラエルは「ユダヤ人国家」を建国理念としており、 アラブ人の視点が教科書に取り入れられるのはきわめて異例で、 この教科書はこの秋以降アラブ系の小学校で使われる予定のようです。 イスラエルでは人口の2割をアラブ系が占めますが、同戦争を 「ホロコーストを生き延びた移民達が独立を勝ち取った戦争」と 位置づけるユダヤ歴史観が現在も支配していて、検定に対し、 和平団体は画期的と歓迎している一方、右派政党は自虐史観で国民の誇りを損なうと批判しています。



「どちらにも公平に?」

 最近、パレスチナ問題を題材にした平和の本の出版を計画する人や自爆テロの犠牲になった 子供の手記を発行しようとする人から相談を受ける事があります。 その際、普通の日本人には理解できない微妙な問題に直面します。 イスラエル、パレスチナどちらにも偏らない表現がいかに困難かをその時になって経験するからです。
 年表一つにしても双方にとって表現が異なっています。 両サイドから見た基礎的歴史背景を学習することなく、 単に「私は公平に平和を望む」「同じ人間同士仲良くすればいいではないか?」と 発言できるほど単純な紛争でないことは事実でしょう。  

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その42)主任研究員 矢野裕巳

「亀岡平和祈念式典へのメッセージ」

 

 2006年夏に開催予定であった亀岡プロジェクト準備のため、 私は同年春、栗山亀岡市長の指示を受けイスラエルへ出向しました。 その指示の1つが、8月7日は亀岡市民にとって、平和を考える上で重要な日である事をしっかりと現地で説明することでありました。 その事を認識したペレスセンターはこの8月7日に合わせてイスラエル、パレスチナの代表を亀岡に送る事に同意しました。
 2007年8月7日、第56回亀岡平和祭平和記念式典に、そのペレスセンター所長、ロン・プンダック博士からメッセージが届きました。また同じようにサタウィーセンター所長、ムンサル・ダジャーニ博士からも メッセージが届きました。 ダジャーニ博士は昨年秋に初来日、11月29日には国学院大学で講演されました。
http://www.oomoto.or.jp/Japanese/jpTopics/daja-ni.html

 

 その時、短い時間でしたが亀岡市からの代表者とも面談し、 亀岡の取り組みへの理解を深められました。 イスラエル・パレスチナ双方の平和センターからのメッセージは 亀岡市の地道な平和活動を高く評価したものと思われます。
 双方のメッセージを紹介します。





 

 

 

 

 






パレスチナからのメッセージ

 親愛なる亀岡市民の皆様、1神教の文明揺籃の地、平和の町エルサレムよりご挨拶申し上げます。現実のエルサレムは平和ではなく戦いに支配されていて、 2つの民族が同じ土地の権利を主張しています。和解と共存を探るのでもなく、また協力して土地を分かち合う事を学ぶのでもなく、両民族の土地をめぐる争いは続いています。
 私達は善良なる日本の方々や日本政府が第3者として イスラエル・パレスチナの間に入って下さる事を望んでいます。 非暴力で平和的政策を次のステップとして模範を示して頂きたいと思っています。発展、平和、共存が許され、戦争、報復、破壊が止むことを願っています。イスラエルの占領がパレスチナの若者に与える影響は小さくはありません。 子供時代の楽しい思い出が奪われ、心理的なトラウマが残っています。イスラエル兵によるパレスチナ人学生への嫌がらせが検問所で続いています。 村全体、町全体が集団で苦痛を経験することもあります。それは、夜間外出禁止令であり、家屋の破壊であり、恣意的、任意的なパレスチナ人の逮捕などです。
 昨年私は、短い日本滞在の中で、多くのことを学びました。そのなかでも最も印象深く感じたのは他人に敬意を払う事です。 パレスチナ人同士が戦いを始めるという 暗黒の時代において我々パレスチナ人は日本人の文化である他人を思いやる 精神を学ばなければなりません。
 人は泣きながら生まれその時世界は喜びの声をあげます。人がこの世に別れを告げる時世界は涙し、自分は喜びの声をあげるような人生を送りたいものです。(インドのことわざ)
 亀岡市がこれからもますます繁栄し、平和と調和が次の世代に受け継がれます事をお祈りいたします。

サタウィー平和センター所長・エルサレム大学教授
ムンサル・ダジャーニ博士


 

イスラエルからのメッセージ

 「私達が、このペレスセンターで行おうとしている事は、 人は自分の将来を決める事ができるということです。 そしてその瞬間を私達は傍観して待つ必要はありません。 私達のような一般人が、一般の企業がそしてNGOが世界を変える事ができるのです。」

シモン・ペレス


 テルアビブのペレス平和センターはこのシモン・ペレスの言葉を日常業務の目的として活動しています。 パレスチナ・イスラエル間の正しい持続可能な平和はパートナーシップ、 対話、協調、そして互いに向き合っての触れ合い以外に方法はないと信じています。
 ペレス平和センターの平和構築活動は様々な分野における共通の利益を通して パレスチナ・イスラエル双方を結びつけています。 ビジネス、IT、医学、スポーツ、芸術等の分野において、 これらの活動によって双方の真の関係を築くことに 寄与するだけでなく双方の社会経済的発展、 教育機会の拡大、インフラ能力の充実にも役立っています。

 若者の代表を日本へ送るという異文化交流に関してペレスセンターはここ数年日本の様々な自治体とプロジェクトを推進してきました。 イスラエルとパレスチナの代表を平和構築活動の一貫として 異文化プログラムに参加するプロジェクトです。
もっとも最近のプロジェクトは亀岡市の要請をうけて ペレスセンターが2006年の夏にイスラエルとパレスチナの若者を日本に送るという計画でした。 残念ながらこの地域の政治的不安定さによりヒズボラ・イスラエル戦争が勃発し、 若者を日本に送る事ができませんでした。

 しかしながら本年2007年3月25日、 テルアビブの日本大使館において素晴らしい平和構築活動が開催されました。 亀岡に到着すべき若者が集まる事ができたのでした。 日本への旅を楽しみにしていたイスラエル・パレスチナの若者はそれぞれ、スデロット、ガザの高校生で、お互いほとんど交わしたことのない対話、 交流の機会が与えられました。若者は日本文化に焦点を合わせた一日を楽しみました。 日本の若者、日本の服装、日本食について体験する事ができました。日本大使館での集まりは彼らの置かれた戦いと暴力にまみれた 状況を考えてみれば身を切るような試みでした。共に自分たちの苦悩と苦しみを話し合い、お互い慰め合って理解しようとしました。

 世界中のメディアで映し出されるこの地域のイメージは暴力、流血です。しかし長らくイスラエル、パレスチナの平和構築の分野で仕事をしてきた者として、それとは違った面も存在する事をお話しなければなりません。
 敵同士と考えられている2つの民族間に、小さいけれど平和で暖かな友情を目のあたりにして、毎朝目覚める喜びを感じます。サッカーでゴールを決めて喜びながら抱き合っているイスラエル、パレスチナの子供達を見ました。  イスラエルの医師がパレスチナの赤ん坊の命を救おうとしている姿を見た事もあります。イスラエル・パレスチナの平和的関係、共存の価値についての合同演劇を観た事があります。そしてより重要な事は両サイドからお互いに隣人として平和に共存しようとする確固たる呼びかけを聞くことです。
 ペレスセンターはイスラエルとパレスチナの平和的関係は可能であると考えています。その平和への道は人と人との活動でなければなりません。共通の利益を通してイスラエル、パレスチナを結びつける、目に見えるプロジェクトが重要なのです。日本の協力を得て、私達はこれらの具体的な活動ができると思っています。今後とも亀岡市との深いつながりの中で目的に向かって邁進したいと考えています。

ペレス平和センター所長 ロン、プンダック博士

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その43)主任研究員 矢野裕巳

「イスラエル軍によるシリア空爆」

 

(写真下)カシオン山から見るダマスカス市街











日本のメディア

 2007年9月6日、イスラエル軍がトルコ国境に近いシリア北部の 核開発関連施設を空爆したとのニュースが世界のメディアに大きく流 れました。 メディアに流れたといっても日本ではそれほど大きな記事では ありませんでした。空爆は北朝鮮の協力による核開発の阻止が狙いであったという見方が当初有力でした。この事から考えると日本にとっても、もっと重大な報道であってもよいはずなのですが?


シリアの反応

 9月7日、シリア報道官はイスラエル空軍機が5日夜から6日朝にかけて、 シリア北部で領空を侵犯したと発表。  シャラ副大統領はイスラ エルは 和平への道を望まず、緊張を高めようとしていると非難。ジャアファリ国 連大使もイスラエルは和平交渉を阻止しようとしていると述べています。 またイスラエルの攻撃目標がイランからのレバノン武装勢力向けの武器保管場所だったという 米国政府筋の発言に、それはナンセンスであり事実 無根で あると14日に発表しました。 周辺国イラン、トルコ、エジプト、レ バノンはそれぞれ同様に非難声明を出しました。 アラブ連盟のムーサ事務局長 は「今回のイスラエルによる領空侵犯は、 地域の利益及び中東和平への努力にマ イナスの 影響を与えるものであり、 国際社会が真剣に検討する事を求める」とコメントしています。 


イスラエルの反応

 イスラエル政府は当初、一切の事実関係への言及を拒否し、 政府や軍には箝口令を、メディアには厳しい報道管制を実施しました。イスラエルメ ディアは連日、海外報道からの転電に頼ってニュースを伝える状態が 続き ました。


ネタニヤフの失言

  9月19日夜のテレビ番組に出演中のネタニヤフ元イスラエル首相 (右派政党リクード現党首)は 6日のシリア攻撃を認める発言をしました。 ネタニヤフ党首は最初からこの件について関与し、支持してきたと発言しました。 事前にオルメルト首相から攻撃を知らされていたと暴露した のです。さらなる聞き手の「首相に作戦成功のお祝いの言葉をかけたのか」との質問に、「個人的にね」と答えました。この発言に政界、軍部から非難がおこりました。その失言の火消しに躍起になる姿から、ネタニヤフが意図的に情報を暴露したのではなく、 レポーターの思わぬ誘導尋問につい失言したのではと思われます。


(写真下)ダマスカス市の中心にある歴史のあるウマイヤド・モスク

 

 

 

 

 





ブッシュ政権がイスラエル空爆を容認

 9月21のワシントン・ポストはイスラエルがシリアの核関連施設 を空爆した問題をめぐり、ブッシュ政権が事前にイスラエルと情報を共有していたと報道しました。施設はシリアが北朝鮮の支援を得 て核 開発を進めていたという情報が浮上しており、 北朝鮮による核拡散を 懸念する米政権が北朝鮮をけん制する目的で、シリア空爆を容認した可能性が大きいのです。 ただし6カ国協議への影響を懸念してか、20日の記 者会見で ブッシュ大統領は一般的メッセージとして北朝鮮が核を拡散させないように期待するとの発言にとどまり、具体的に空爆や北朝鮮のシリアへの核 物質輸送などについては言及しませんでした。


北朝鮮のテロ支援国家指定解除にブレーキ?

  北朝鮮とシリアは、共に米国からテロ支援国家に指定され、その協力関係が伝えられるなか、北朝鮮のテロ支援国家解除への慎重論が米国内で 起こっていると伝えられています。拉致問題を前進、解決しなければならない日本にとっても北朝鮮の指定解除は大きな問題であり、単に遠い中東の地で起 こっている事ではありません。 北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議のメンバーとしても私達はもう少しこの問題を身近かに感じ、より包括的に考えてもよいのではないでしょうか?


イスラエル空爆の本当の狙い

  空爆が北朝鮮からの核関連物質であったという証拠はあがっていません。むしろ攻撃目標は北朝鮮からのミサイル関連技術・部品で、レバノン のイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラへの輸送武器であったという 見方が現在(2007年9月27日)のところ有力です。 しかし、本当 のところは解りません。ただはっきりしているのは今回のシリア空爆はイスラエルがシリアの背後にいるイランに対していつでも攻撃するという強力な警告、メッセージを発したことは間違いありません。


(写真下)ダマスカス市外とカシオン山



 









写真撮影:田中雅道国際部長(当時・1991年撮影)

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その44)主任研究員 矢野裕巳

「イスラエルロビーとパレスチナ和平 1」

 改めて米国のダブルスタンダードを考える

 私は以前にも本誌で「米国はイスラエル偏重か?」「米国でのタブー それはイスラエル非難?」で書きましたが、現在のパレスチナ問題解決 への最も大きな障害は米国の対パレスチナ問題へのダブルスタンダード (イスラエルに甘く、パレスチナに厳しい)です。それでは米国のダブルスタンダードはどこから来ているのでしょうか?   

 今回から数回に分けてこの問題を考えたいと思います。


大統領選出馬への第一声

 これはよく言われる事ですが、米国大統領出馬は、異口同音にイスラ エルへの支援継続とイスラエルとの友好を宣言することから始まります。 対外的、とりわけ中東での米国のイメージを改善するために、米国はアラブ諸国やパレスチナとイスラエルに対して、より公平な立場をとるべきだと主張する候補者は存在しません。少なくとも本気で当選しようと考える候補者なら。なぜでしょうか?


政治的な力への恐れ

 米国の政治家がイスラエルに対してこのようなへりくだった態度を取るのはイスラエルロビーの存在があるからです。イスラエルロビーとは米国の外交政策をイスラエル寄りにしようと活動する個人や諸団体の連合体です。その大きな目的はイスラエルの主張を米国内で広め、イス ラエルの利益となる外交政策が決定されるべく影響を与え ようとすることです。国内外の諸問題において意見を異にする候補者が、イスラエル問題に対しては同じ発言になるのは、そうしなければ政治的に大きなハンディを背負う事になるのを恐れているからです。


アパルトヘイト

 ジミー・カーター元大統領が2006年11月、著書「パレスチナ問題」で、イスラエルのパレスチナ占領政策をアパルトヘイトと呼んで大きな反響を巻き起こしました。加えて、元大統領は親イスラエル派の諸団体、いわゆるイスラエルロビーの存在によって米国がイスラエルに圧力を加え、譲歩を得る事ができずに和平達成を困難にしてきたと公言した のです。そのことで、彼はイスラエルロビーから反ユダヤ主義者の非難を受けました。この著書に対する賛否は当然ありますが、長年パレスチナ問題に取り組み、真に和平を願うカーター元大統領の気持ちは十分に伝わる内容です。少なくても反ユダヤ主義の観点からこの本をとらえることは出来ないでしょう。


all or nothing

 ユダヤ人に関する主張は両極端に偏っています。世界の中でユダヤ人は途方もない影響力をもっており、時にそれは世界を支配するという破天荒な理論が普通に語られる事もあります。それに 反してユダヤ人の影響力をまったく認めず、そのようなものは存在しないとの考え方もあります。しかし、ユダヤ人の影響力を過小評価すべきではな いでしょう。米国3億人の人口のなかで、22パーセント弱の約600万人といわれるユダヤ系の、あらゆる分野におけるその存在力は 計り知れないものがあります。米国のイスラエルに対する並外れた物質的援助と外交支援の現実をみてもイスラエルロビーの存在を無視できないでしょう。と同時にイスラエルロビーが米国のすべての政策にその影響力を行使できているわけでもありません。バランス感覚をもった議論が必要とされています。


ロビー活動は違法ではない

 ロビーの日本語訳は「圧力団体」「利益団体」そこで働く人をロビイストと呼びます。ロビイストは圧力団体、利益団体の代理として、政党や議員、官僚、さらには世論に働きかけて、その団体に有利な政治的決定を行なわせようとする人です。よく知られている団体には ”全米退職者協会” (AARP) 、全米ライフル協会(NRA)等があります。日本でもよく知られている NRAは、銃器製造、販売業者、銃愛好家などで構成され、銃規制法案が議会に提案されると、法案成立を阻止するよう強力にその影響力を行使していきます。ワシントン政界でのアルメニアロビーの活動もよく知られています。
 1915年、オスマントルコで起きたアルメニア人大虐殺(ジェノサイド)を国際的に認めさせる よう強力に活動を続けています。ある団体、ある外国政府がロビー団体を使って他の政府に影響を与え、外交政策上の目的を達成しようとするのは正当な活動だと認められています。すべてのロビー団体が世論に影響を与えたいと考えています。  イスラエルロビーも基本的にこれらと同じような活動を行なっているわけで、 秘密結社や陰謀集団ではありません。



和平への障害

 問題となるのは、カーター元大統領の主張通り、強力なイスラエ ルロビーの存在で、米国が公平な仲介者になれない現実が存在すること です。これはイスラエルにとっても大きくマイナスに働いています。 一例として、イスラエルへ旅行された方は理解できると思いますが、この地域の観光地としての潜在力です。より平たく言えば、もしイスラエ ルやパレスチナが平和であれば、また平和のイメージが高まれば、世界中からの旅行者で繁栄しているでしょう。多くのキリスト教徒、イス ラム教徒、ユダヤ教はその宗教的情熱からもこの地を訪れるでしょうし、信仰心を持たない人も、1度は訪れたい地域だと思います。様々な問題がからんでいて、単純には言えませんが、イスラエルにとって平和ほど経済効果をもたらすものはないでしょう。イスラエルロビーの活動がパレスチナやアラブ周辺国の反発を引き起こし、和平への障害となっている 現実は、長期的にみてもイスラエルの国益に反しています。  

 次はより詳しくこの問題を考えてみたいと思います。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その45)主任研究員 矢野裕巳

「イスラエルロビーとパレスチナ和平 2」

 米国の対イスラエル援助

  1976年以来、30年以上の間、 イスラエルは米国からの最大対外援助受給国であります。 その援助額がどれほど大きいものであるか、具体的な数字を上げると、 年平均、30億ドル(3600億円)という数字で一般に表されます。 これは米国の直接的対外支援予算全体の6分の1に当たりますが、 実際は少なくても43億円(5160億円)を超えているとも言われています。


イスラエルに対する特別条項、特別免除

 膨大な援助金を受け取っているイスラエルはそれを受けとる形態においても特別かつ寛大な米国の計らいを受けています。 米国の対外支援を受けている国は通常援助金を4半期に分けて受け取ります。 しかし イスラエルは米国の対外援助法案の特別条項により、 毎年、会計年度の30日以内にその年度の割当額の全額を受け取る事が決められています。 あたかも年収を元旦に受け取るサラリーマンのようであり、 必要になるまでプールしている金額分から生じる利子を稼ぎだしています。 この一括払いの資金を調達するため毎年5000万ドル (60億円)から6000万ドル(72億円)の負担が米国の納税者にかかっています。

 また、イスラエルはその援助金の使途を説明する必要のない唯一の国と言われています。 国際法違反と非難されているヨルダン川西岸の入植地や、 分離壁の建設に米国の援助金が使われる事をチェックすることができない仕組みになっています。 米国から海外の慈善団体への個人的な寄付は所得控除されないのですが、 イスラエルへの個人の寄付の大半は 「米国・イスラエル所得条約特別条項」により控除される事になっています。 これらの優遇措置もイスラエルロビーの働きの成果だと思います。


外交面からの擁護

 1972年から2006年までの間、 米国はイスラエル非難に対する42の国連安全保障理事会決議に拒否権を行使しています。 これは、この期間に米国が行使した拒否権の総数の半分以上に当たります。 また同期間に他の常任理事国4カ国が行使した拒否権のトータル数をも上回っています。 なによりも、米国が拒否権を使う事が解っているため表決されなかったイスラエル批判決議の数は、 実際に表決された数よりも数段多いはずです。


米国への経済制裁?

 1973年の第4次中東戦争中、 「石油禁輸処置」「石油減産」という石油を武器にしたアラブの決断は、 当時のニクソン米大統領がイスラエルに22億ドル(2,600億円)の 緊急軍事援助をしたことに対する直接的な対抗策でした。 これによって米国経済もかなりの打撃を受けています。 アラブの石油禁輸、減産による?石油価格高騰で1974年だけで、 米国は485億ドル(5兆8000億円)の損害を受けたといわれています。 米国は過去においても現在においても、 敵対する多くの国を経済制裁で締めつけてきました。 しかし逆に超大国米国が経済的な制裁で締め上げられ、 少なくとも動揺させられた例はこの時のサウジアラビアを中心とする アラブ諸国の石油戦略以外には考えられないでしょう。


米国と石油

 米国の中東への関心を石油確保、 また石油企業の利益のためとの意見をよく聞きますが、 私はこれには大きな疑問を感じます。 常識的に考えて石油が真の目的ならば、 米国はアラブを支持し支援するはずです。 イスラエルを強烈に支持する事で米国が支払ってきた代償。 今も支払っているコストを考えてみれば、 石油が米国の中東への最大関心事とは考えられません。 イスラエルを強く後押しする特別な力、 いわゆるイスラエルロビーの存在が米国の親イスラエル政策の根底にあるからです。


長期的展望

 前回も書きましたが、イスラエルを支持しイスラエルに利する方向に 米国の外交政策を導こうとするイスラエルロビーの活動は決して違法ではありません。 それでも長いスパンで考えて、世界の平和、中東の平和、 パレスチナの平和を考える点で、 どう見ても不自然なイスラエル支持を貫く米国外交はその弊害になっていると思います。 イスラエルロビーの強力な働きによって米国の中東問題での公平な仲介を阻害しているなら、 長期的に見て最も大きな負債を受けるのはイスラエル自身ではないかと筆者は考えます。 (1ドル=120円で換算)  

誰にでもわかるパレスチナ問題(その46)主任研究員 矢野裕巳

「イスラエルロビーとパレスチナ和平 3」

 イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策

 米国のイスラエルへの一方的とも思える支援が中東の安定、パレスチナ 和平への障害の1つであることは、中東について少し勉強すれば 誰にでも解るでしょう。


 また米国の外交政策決定に強い影響力を与えるイスラエルロビーの存在ついては 以前から認識されていて新しい話題ではありません。 ただ、今年、この問題を大きく扱った本が出版され論争の的になっています。


 ジョン・J・ミアシャイマー、シカゴ大学教授とスティーブン・M・ウォルト、 ハーバード大学教授の共著、 『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』 http://shop.kodansha.jp/ bc/books/topics/israellobby/  は、

日本でも講談社から9月、10月に上下2冊が出版されました。 米国やドイツでは発売と同時にベストセラーになりました。 日本でそれほど話題になっていないのはこの種の話題にまだまだ興味が持たれていないからでしょう。


米国のタブーに議論の扉を開けた?

 ミアシャイマー、ウォルト両教授は著書で、イスラエル・ロビーに振り回される 外交政策は、米国の国益にならないし、イスラエルを特別扱いすることを 繰り返し批判しています。出版に際しても、イスラエル・ロビーからの大きな 圧力があったと詳細に述べています。


 イスラエルはパレスチナ人の権利を侵害して建国されたことを認めるべきであると書いています。 またイスラエル・ロビーがいかに巧妙に米国議会に影響を与え、 米国の中東政策を誘導してきたかを解りやすく書いています。 私自身はイラク戦争を始めるにあたりイスラエル・ロビーが米国に どれほど大きな影響を与えたかは少し疑問ですが、この戦争によりサダム・フセイン政権が打倒され、イスラエルの安全が増した事は 否定できないと思います。

 

 いまだ完全に消えない米国の対イラン攻撃の可能性も イスラエルのためであり、米国の利益にはならないという主張には 論理性があるのではと思ってしまいます。


 イランのアハムード・アハマディネジェッド大統領は「イスラエル抹殺発言」を 繰り返し地上からイスラエルの存在を消滅させると公式な場で挑発しています。

 前回も書きましたが、私は石油のために米国はイラク攻撃を行ない、 またイランをも攻撃する準備をしているとは考えられません。 アラブ諸国との関係を円滑にして友好関係を築く方が、少なくとも中東産油国からの石油を安定 的に確保出来ると考える方が現実的ではないでしょうか?


 少なくとも今までは公的に活発な議論がなされなかったイスラエル・ロビーの タブーをこじあけた書籍であると思います。


 ”イスラエル擁護論批判” ”ホロコースト産業”

 "イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策"が発売される直前、 2007年3月、ノーマン・G.・フィンケルスタイン著『イスラエル擁護論批判』の邦訳本が三交社から出版されました。
http://www.sanko-sha.com/sankosha/editorial/books/items/168-7.htm


  フィンケルシュタイン氏はイスラエル・パレスチナ問題における米国の代表的研究者の1人です。 両親ともナチ収容所からの生還者というユダヤ系米国人であり、 シオニズム、ホロコーストを特に研究テーマとして深く研究。  その結果イスラエルの被害者イメージとその利権に群がる同胞ユダヤ人に厳しい批判を続けている。


 世界的に話題となった彼の前著『ホロコースト産業』(邦訳は2004年発行)
http://www.sanko-sha.com/sankosha/editorial/books/items/158-2.html は簡単にいえば、米国のユダヤ人エリートがホロコーストを商売にしていると書いています。


 氏によれば、ホロコースト産業に従事するシオニストたちは、 ホロコーストを盾に、被害者の数を水増しするなどして多額の保証金を得ていると糾弾。 さらにそれらの保証金は一般のユダヤ人被害者の手には 十分に渡らず団体幹部達の高額給与やイスラエルの入植政策に使われているとも書いています。

 2007年10月21日、私は同志社大学新島会館でフィンケルシュタイン氏と直接お話しする機会がありました。

 氏は同志社大学学際研究センター主催の国際ワークショップの発表者の1人として参加されていました。

 午後からのセッション「アメリカのパレスチナ・イスラエル外交を検証する」の発表前、 15分程、私はこれまで疑問に思っていた事を矢継ぎ早に質問させて頂きました。


 フィンケルシュタイン氏が、いつもの事だが、せっかく京都に来てもどこも見ていない、 世界のどこへ行っても観光をした事がないと笑いながら話されていたのが印象的でした。


 初めての日本で、広島、長崎は是非行きたいと残念がられているので、 次回は私が案内しますと名刺を渡しました。 「申し訳ない。日本到着後3時間で名刺切れになってしまって。」と謝る彼に 「次回日本に来る時は、洗面道具は忘れても名刺は1日100枚用意した方がいいですよ」と私が言うと 「 You are right !」と両手を大きく広げて笑っていました。


2つのホロコースト

 かつて広島を訪問したシモンペレス現イスラエル大統領は 「アウシュビッツと広島は20世紀の2つのホロコーストだ」と発言。 この発言を強く非難したのが、エリー・ヴィーゼル氏です。 ユダヤ系米国人で自らのホロコースト体験を自伝的に記し、 1986年ノーベル平和賞を受賞しています。


 「ホロコーストは人類史上類のない大事件だから他の出来事と比較してはならない」  このヴィーゼル氏の主張に、フィンケルシュタイン氏は 強い懸念を示している。どうしても広島へ行きたいと話していた彼の顔が、 今改めて思い出される。  

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その47)主任研究員 矢野裕巳

「ヨルダンハシミテ王国 1」

 直線的な国境

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 パレスチナ問題を考える時、現在のイスラエル、 パレスチナ自治区周辺の国々についてもその歴史的成り立ちを考える必要があると思われます。 アフリカ諸国の国境と同じようにアラブ世界の国境も緯度、 経度に沿った直線的なものが多く見られるのは同じ理由からです。 英仏中心のヨーロッパ列強が現地固有の事情、 宗教的聖地等を配慮せずに自分たちの都合で国境を決めたのです。 西にイスラエル、東にイラク、 また南はサウジアラビア、北はシリアに囲まれたヨルダン、 正式名称ヨルダンハシミテ王国について何回かに分けて勉強しましょう。


英国の約束は?

 20世紀初頭までアラブ民族はオスマントルコに支配されていました。 独立の機運はあり、いくつかの反乱はありましたが、実現しませんでした。 地政学上の重要地点としてこの地に関心をもった英国は第一次世界大戦(1914年~1918年)のさなか、 1916年、独立を願うアラブと重要な約束を交わします。 現在するアラブの国々は、当時存在せず、 アラビア半島のメッカ(イスラム第1の聖地で現在のサウジアラビア)で 守護職についていたシャリーフ・フセインがアラブを代表しました。 シャリーフとは高貴なと言う意味で預言者ムハンマッドの家系です。

 その約束とは、アラブが英国のオスマン帝国への攻撃を助けるかわりに、 その勝利の後には現在のサウジアラビア、シリア、イラク、ヨルダン、パレスチナ自治区、 イスラエルの地域に、アラブの大国家を設立するというものでした。 一方、英国はこの大戦中にユダヤ人とも同様の約束を交わしており、 その二枚舌外交がパレスチナ問題のスタートである事は本誌でも4回目で書いています。 フセインの三男、ファイサルはアラブ反乱軍として1918年ダマスカス(現シリアの首都)へ入り、 父フセインが望むアラブ王国建設への重要地点を押さえました。 ところが戦争が終わった後の英国の姿勢はまったく違っていて、 サイコス・ピコ条約で約束していたフランスと中東領土を分割したのです。 アラブ側は1920年、ファイサルを国王としてアラブ独立を宣言するも、 フランスの武力に屈してファイサルは国外追放となり英国での亡命生活を強いられるのでした。



アブドラー・チャーチル会談

 これら英仏の態度に激怒した、 フセインの次男アブドラーはフランスに占領されたダマスカスへアラブの大軍を進めようとします。 この危機に際して登場するのが、有名な後の英国首相ウィンストン・チャーチルです。 当時植民地大臣であった彼はアブドラーとエルサレムで会談します。 このアブドラー・チャーチル会談により、現在のヨルダンという国が誕生します。 この取り決めについては現在も様々な意見がありますが、 私はチャーチルの外交手腕、高度な交渉術そしてアブドラーの現実主義が生み出した結果であると思います。


トランスヨルダン

 アラブとの約束反故を何とか払拭しようと、チャーチルは動きます。 アンマン(現在のヨルダンの首都)を含むヨルダン川東岸地域を「トランスヨルダン」として (トランスとは英語で向こう側、つまり英国から見てヨルダン川の東側と言う意味)アブドラーの支配下に委ねます。
 当初英国委任統治としてスタートしますが、 1946年、独立国としてアブドラーは初代国王になりました。 父フセインが望んだ領土にはとても及ばないものの、 当時の英国と交渉しアラブ人の国を立ち上げたアブドラーの力量は評価出来ると私は考えています。 英国がユダヤ人と約束したバルフォア宣言には ヨルダン川東岸の土地は含まないということを チャーチルに約束させた事は現代のパレスチナ問題においても重要な点で あったと思います。



イラク

 一方英国に逃れた3男のファイサルは、 ダマスカスでのフランスとの戦いでの英国の態度を決して忘れることはなかったものの、 残りの人生を亡命生活で終えるより、新しいアラブの国の発展に寄与すれば、 という説得を受け入れたのでした。 またしてもチャーチルの説得で、 反英感情の高まりに苦慮していた当時のイラク地方を英国から独立させ、 ファイサルに新しい国家を築く決心をさせました。 ファイサルは根気強く国家としてのまとまりを進めていきました。
 はたして、 事情の違いはあるでしょうが、兄のアブドラーのトランスヨルダンの独立より早く、 1932年、イラクは独立国として国際連盟に加わりました。



兄弟の国、イラク、ヨルダン

 ファイサルの死後、わずか2代で王政が終わり、 軍事による共和制となったイラクについては、別の機会に詳しく述べたいと思います。 サダム・フセインや現在の混乱についても考えたいと思います。 がここでは、第一次世界大戦において、 イギリスと領土の約束(フセイン・マクマホン書簡)をしたシャリーフ・フセインの次男、 三男がそれぞれ、現在のイラク、ヨルダンを作った事を覚えておいてください。  

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その48)主任研究員 矢野裕巳

「ヨルダンハシミテ王国 2」
 独立から現在まで

 英国と領土の約束(フセインーマクマホン書簡)をしたシャリーフ・kフセインの次男、 アブドゥッラーは1946年、イギリスの保護下からトランスヨルダンを独立させ 自身がアブドゥッラー1世として初代国王に就任しました。 1949年に国名をヨルダン・ハシミテ王国に改めました。

 1951年7月20日、アブドゥッラー1世は エルサレムのアル・アクサモスク入り口でアラブ人民族主義者によって暗殺されます。 その暗殺現場を目撃したアブドゥッラー1世の孫が、 後に3代目の王となるフセイン1世でした。  アブドゥッラー1世暗殺の後、長男のタラール1世が2代国王として即位しますが、 病弱な為、孫のフセイン1世が摂政を経て1953年5月2日、 17歳で3代目国王に就任。 1999年に亡くなるまで約半世紀の間、難問の重なる中東で王として国のかじ取りをしました。 1999年から現在までアブドゥッラー2世が4代目の国王として国を統治しています。



君主は世襲制

アブドゥッラー1世(1946年~1951年)
タラール1世   (1951年~1953年)
フセイン1世    (1953年~1999年)
アブドゥッラー2世(1999年~現在 )




                        写真はフセイン1世(左)とアブドュッラー2世現国王(右)
さらなる難民

 トランス・ヨルダンから国名をヨルダン・ハシミテ王国に変更した翌年の1950年4月、 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地域をヨルダン領と宣言した。 しかし1967年の第3次中東戦争で、この地域をイスラエルに占領され、 新たに20万人ともいわれるパレスチナ難民を抱える事になります。 1948年のイスラエル独立宣言に始まる、第1次中 東戦争で40万人ものパレスチナ難民をすでに国内に抱えていたのでした。


ヨルダンはなぜ参戦したのか?

 ヨルダン川西岸と東エルサレムを失う事になる第3次中東戦争になぜヨルダンが参戦したのか?
 ヨルダンに対してイスラエルは当初開戦の意思をもっていなかったように思われます。 エジプト、シリア両国に攻撃を準備していた開戦前のイスラエルを考えれば、 ヨルダンが攻撃してこなければイスラエルとの戦闘はなかったと思われるのですが?
 もちろん、これもイスラエルの情報操作で、 実際はそうではなかったと主張する人もいますが、 これは後世の歴史家の証明に委ねておきましょう。 ただ、この戦争でのアラブ大敗によりパレスチナ人は自分たちの力でパレスチナを解放しようという動きが強まりました。
 その事によりヨルダン国内は正規のヨルダン政府とパレスチナ組織の内戦状態に陥ってくるのです。

 


ブラックセプテンバー  

 1969年ヤセル・アラファトがパレスチナ解放機構(PLO) の議長に就任。 ヨルダンに拠点を置き、あたかもヨルダン国内のもう一つの国家として行動をするようになるのです。 PLOはヨルダンからイスラエルに対する越境作戦により、 イスラエルの反撃を誘いヨルダンを戦場に、そして他のアラブ諸国も巻き込み、 イスラエル対アラブ全体の戦いに持っていこうとしたのです。 ヨルダンはまさにイスラエル軍襲撃の的でした。 イスラエルとの全面戦争突入を回避するため、フセイン国王は決断します。 1970年9月、ヨルダンからパレスチナ組織を追い出す軍事攻撃に出ました。 およそ10日間の壊滅作戦でパレスチナ 組織はヨルダンから追い出され、レバノンに移ります。 レバノンは後にヨルダンと同じ問題に苦しむ事になるのです。
 1970年9月にヨルダンで起こった、 この出来事はブラックセプテンバー(黒い9月)として歴史に刻まれています。 多くのパレスチナ難民と、国民の半数以上がパレスチナ人であるヨルダンにとって内乱の危機に直面した時でした。 またヨルダン政府によるパレスチナ人攻撃をアラブ諸国は強く非難し、建国以来最大の困難でもありました。

 

 次回はもうひとつのヨルダンの危機、湾岸戦争への対応について詳しく考えてみたいと思います。  

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その49)主任研究員 矢野裕巳

「ヨルダンハシミテ王国 3」

 参戦した過ち?

 一般に広く語られるヨルダンの過ちの1つが前回に紹介した 第3次中 東戦争(1967年)への参戦でした。 ヨルダンが参戦しなければ、イスラエルの攻撃はなかったと思われます。 そうすれば、ヨルダン川西岸・東エルサレムをイスラエルが占領することもなかったのです。                     


参戦しなかった過ち?

 緒戦のアラブ側の勝利によって対イスラエル交渉をアラブ側に有利に運んだといわれる 第4次中東戦争(1973年)にヨルダンは参戦しませんでした。
 戦わなくてもよかったと言われる第3次中東戦争への反省、反動かもしれませんが、 この不参戦によって以降の対イスラエル交渉での発言力を弱めたとも言われています。



もう一つの参戦しなかった過ち?

 非産油国で天然資源に乏しいヨルダンは外国の援助、 産油国や先進国に大きく依存しています。 ヨルダン政府は建国以来、伝統的に親米路線をとってきました。 国の存立のためそうせざるをえなかったという方が適切かもしれません。 ただ、ヨルダンは人口およそ600万人のうち約70%がパレスチナ人であり、 元来、反米、反イスラエルの意識が強い事は容易に理解できると思います。

 1991年の湾岸戦争で、国連決議を無視するイラクは、 サダム・フセインがこれまで国連決議を無視した行動をとってきた イスラエルをダブルスタンダード(パレスチナリンケージ)として持ち出します。 これに振り回されて、ヨルダンはイラク支持に立ちました。  

 イスラエルを 一方的に支持する米国への非難がパレスチナ人を刺激し、 ヨルダン国内に反米デモを引き起しました。 伝統的に反米的なシリアが 国籍軍に加わり、 伝統的に親米的なヨルダンがイラクのサダム・フセインを支持したのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


                                              写真:サミールナウリ駐日ヨルダン大使と筆者

                                                     (2008.3.25 東京ヨルダン大使館にて)

 パレスチナ、スーダンと共に負け組になった ヨルダンは戦後大きな国家のつけを払わされることになりました。 イラクを支持したことで、湾岸諸国やアメリカからの財政的援助はストップし、 クウェートやサウジアラビアへの出稼 ぎという大きなヨルダンの収入減が断たれました。 30万人とも言われるパレスチナ人が出稼ぎ地から追放され、大変な数の失業者を生み出したのでした。        



外交官として最も苦しい時代でした!

 湾岸戦争によって反米国家としての烙印を押されたヨルダンは湾岸戦争後、 政治的に対イラク強硬姿勢を示し、アメリカに接近します。 湾岸戦争を挟んで、ヨルダンにとって最も困難な時代で、 対米関係修復に苦慮した経験を 持つサミール・ナウリ駐日ヨルダン大使は 次のように私に語ってくれました。
 「外交官としての私の長い体験の中で、このときほど苦しい時はなかったですね、 当時のいきさつをまとめれば何冊もの本になるはずです。」 
 在ニューヨーク、ヨルダン国連代表部次官としての 当時の体験は是非将来1冊の本にまとめていただきたいものです。



公平な仲介者として

 何度も繰り返し述べていますが、中東問題、パレスチナ問題は見方が変われば意見は まったく180度変わってきます。 もちろんその他の紛争にも同じことがいえますが、 その複雑さにおいては他に比較できないかもしれません。 ヨルダンの外交姿勢を日和見主義と批判し、 イスラエル建国以前からの同国との密約を批判する人もいます。 しかし私は米国、イスラエルともチャンネルをもつヨルダンは 小国ながら中東和平推進に最も重要な役割を果たす国であると思います。


米国との距離感

 エジプトはヨルダンよりも早くイスラエルとの国交を結びますが、 アラブの大国であるという点でどうしても パレスチナ問題の公平な仲介者には限界があるように思われます。

 2007年12月、私は初めてシリア、ヨルダンを3日間ずつ訪問しました。 冷戦後の中東において米国との距離感がいかに国の発展に重要であるかを 2国の比較から現実の問題として実感しました。 湾岸戦争で多国籍軍に加わり勝ち組に入ったシリアは 継続的に米国との関係を改善することが出来ませんでした。 湾岸戦争でイラクに同情的な立場で多国籍軍に加わらなかった ヨルダンはその後の外交努力で米国との関係を修復しました。 1994年のイスラエルとの平和条約調印以来多くのイスラエル人がヨルダンを訪れています。

 対米追随という問題が、大衆レベルで噴出する危険を常に抱えながらも ヨルダン国家発展への舵取りがうまくいっているというのが私の考えです。

 

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その50)主任研究員 矢野裕巳

「シリア 1」

 シリアという国

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 中東和平にとって鍵を握る国の1つシリアについて 今回から数回にわけて考えてみたいと思います。 シリアの正式名称はシリア・アラブ共和国。 この国名は、かつてメソポタミアで栄えたアッシリア帝国から来ています。 北のトルコ、東のイラク、南のヨルダン、西のレバノン、イスラエルに接しています。
 人口は2千万弱で面積は日本のほぼ半分です。 国民の9割近くがアラブ人で、少数のアルメニア人、クルド人がいます。 宗教はイスラム教スンニー派が74%、16%がアラウイー派で、 10%のキリスト教徒も存在します。古代より文明が栄えた土地であり、 各文明の交流地点のため高度な文化が発達しました。 国内の各地にアッシリア帝国時代の遺跡が点在します。 1946年フランスの委任統治から独立。 政治体制は事実上、バアス党(アラブ社会主義復興党)単一の社会主義国です。                     



アラブ統一をめざして

  1946年フランスから独立したシリアは、 その直後イスラエルとの第1次中東戦争で敗北し、国内が政情不安に陥ります。 
 アラブの統一を旗印に1958 年、エジプトと連合して新しい国、 アラブ連合共和国を建国しました。 アフリカ大陸の北東部分のエジプトとアジア大陸の西側に位置するシリアが飛び地国家として 1つの国を作りあげたのです。
首都をカイロにおいたこのアラブ兄弟国による連合は長続きしませんでした。 多くの政治的決定がエジプトのナセル大統領主導で行なわれ、 シリアが これに反発したと言われています。 アラブ人の中でももっとも誇り高いと言われるシリア人にとって エジプトの態度が高圧的に写ったのかもしれません。 結果としてこの連合体は短命に終わり1961年には早くも解体され、 もとのエジプト、シリアに戻りました。



シリアの地図

 

 

 

 

 

 

 



 皆さんが中東へ旅行し、イスラエルからシリアへ行こうとしても、 テルアビブ(イスラエル)からダマスカス(シリアの首都)へ直接行く事はできません。 また、シリア入国に際して、もしあなたのイスラエル滞在の過去が解れば、 それだけで入国を拒否され空港から 追い帰されてしまいます。 シリアはイスラエルの存在を認めていないので、その反イスラエル政策は徹底しています。 シリアの地図にはイスラエルの記述がなく、 現在のイスラエルの位置には単にパレスチナと書かれています。

 そのような訳でイスラエル出入国の際には税関でNo Stamp といえば パスポートにスタンプを押さずに通してくれます。 とにかくあなたのパスポートにイスラエル入国のスタンプがあれば、 そのパスポートの有効期限がまだ先であっても、 新しいパスポートに代えなければシリアに入国できません。 逆の立場でイスラエル入国に際して、過去のシリア入国のスタンプがあったとしても、 ただちにそれが理由で入国が拒否される事はありません。
 ただ世界でもっともセキュリティチェックの厳しいイスラエルの税関で、 厳しくシリア訪問の理由に関して質問攻めに会う事は避けられないでしょう。 隣同士の国でこれほどの敵対関係を長らく続けている国はあまり例がないと思います。
 この地域でイスラエルとかつて敵対関係にあったエジプト、ヨルダンは、国民感情を別にすれば、 お互いの観光客が自由に往来できる関係を築いています。



シリアの政治・外交

 1970年のクーデターで政治的実権を握ったハーフェズ・アル・ アサドが2006年6月に死去。 政権は次男のバッシャール・アル・アサドに委譲され現在に及んでいます。 次回はシリアの政治・外交を対イスラエル、また対周辺アラブの国々との関係を考察します。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その51)主任研究員 矢野裕巳

「シリア 2」
 ゴラン高原

 

 

 

 

 

 

 

 



 1967年の第3次中東戦争に勝利したイスラエルはシリアのゴラン高原を占領します。 1973年の第4次中東戦争で、シリアは一時これを奪還しますが、 最終的にはイスラエル軍に再び攻め込まれ、 結局イスラエルに再占領されます。シリア南西部に位置し、 イスラエル、レバノン、ヨルダンと国境を接する高原です。
 ヨルダン川流域を見渡せることから、軍事戦略上重要な拠点です。面積は東京都の約半分、 沖縄本島と同じぐらい。水資源の乏しい中東にあって、冬には雪が降り、 その雪解け水のおかげで1年を通して水が豊富な地域です。水源確保の意味でも重要な拠点となっています。
 イスラエル国防軍はゴラン高原を1967年から1981年まで占領して軍政下に置きます。 そして1981年、ゴラン高原併合法案をクネセット(イスラエル国会)で可決し、 自国の領土であると主張し始めます。国際連合、イスラエル以外の国際社会はこれを認めず、 ゴラン高原はイスラエルに軍事占領されたシリア領と考えています。 国連安全保障理事会は決議497「イスラエルの併合は国際法に対して無効である」を採択しています。 しかしイスラエル政府はあくまでも「併合」であるとの認識で、自国領土と主張しています。 ゴラン高原の戦略的重要性また水資源としての大きな価値がこの問題の解決をより困難にしています。                     

 


何が問題なのか?

 当然シリアはイスラエルのゴラン高原からの完全撤退を要求しています。 現在ゴラン高原 にもおよそ1万6千人のイスラエル人入植者がいます。 入植者の大半はゴラン高原返還には反対しています。 イスラエル国内にもこの入植者を支持するグループがいます。 その反対勢力を押さえ込む強い政権が必要でしょう。 しかし入植者への対応がゴラン高原返還交渉の最も困難な問題ではないのです。

 最も複雑な問題は大きく次の2つにわける事ができます。

1.撤退後のイスラエル・シリア間の非武装地帯の設置について、その範囲、広さの確定。 これはお互いの安全保障が守られる形をつくる事。
2.国境の設定。イスラエルとシリアは第1次中東戦争によってはっきりとした国境が定まっていない。 つまりどの時点までイスラエルが撤退するのかによって ヨルダン川に流れる水資源の支配権やガリラヤ湖への権利が変わる。
 恐らくこの2の水資源の問題が最大のネックになると思います。



イスラエル、シリアが交渉再開

 この記事を書いている1週間前、2008年5月21日、 イスラエル、シリアが8年ぶりに交渉再開というニュースが流れました。 2000年から中断する和平交渉がトルコの仲介で再開したと両政府が発表しました。 焦点はもちろんイスラエルによるゴラン高原の返還問題ですが、 オルメルト、イスラエル首相は「困難な譲歩を行なう用意がある」 と公言しています。 イスラエルの最大の狙いはイスラエルを敵視するヒズボラ(レバノン)とハマス(パレスチナ)との関係断絶を シリアに求める事にあるのです。今後の交渉が期待されるところです。

 

 

 

 

 

 

 


 (写真右)日本から送られた平和の折り鶴を市長室の壁にかける

   エフッド・オルメルトエルサレム元市長(元イスラエル首相)
   2000年7月、松本公夫撮影

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その52)主任研究員 矢野裕巳

「東京大本歌祭」


 2008年4月17日、大本東京本部で「大本歌祭」が開催されました。

 

 この歌祭には、ワリッド・アブセルナセル駐日エジプト大使、サミール・ナウリ駐日ヨルダン大使、 ワリード・シアム駐日パレスチナ代表部代表がそれぞれアラビア語で平和の歌を献歌されました。 またニシム・ベンシトリット駐日イスラエル大使は、ヘブライ語で同じように平和の歌を献歌されたのでした。 歌祭前日の4月16日にそれぞれの大使館、代表部で色紙に揮毫をお願いしました。













 (献詠歌:上)明日には平和がくると人はいう。しかし、誰も平和を得るための代償を払おうとしない。 このことを私達は教えなければならないのです。
 ニシム・ベンシトリット駐日イスラエル大使(写真はイスラエル大使書記官)















 (献詠歌:上)人類よ!人類の正義と平和のために共に努力しましょう
 ワリッド・アプセルナセル駐日エジプト大使















 (献詠歌:上)平和を望むすべての人の助けを借りて国を建国する。それが、私達の望み。 パレスチナに平和をもたらすために協力して下さい。
 ワリッド・シアム駐日パレスチナ代表部代表(写真はパレスチナ大使書記官)
















 (献詠歌:上)広い広い世界で、洋の東西をとわず、人類はお互いに手をさしのべ愛をもってつながるのです。
 サミール・ナウリ駐日ヨルダン大使

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その53)主任研究員 矢野裕巳

「マドリード世界対話会議」










 サウジアラビア国王が提案したムスリム世界連盟主催の国際宗教会議が 2008年7月16日から18日までスペインの首都マドリードで開催されました。 駐日サウジアラビア大使館を通じて主催側から参加への打診があり、 大本から島本邦彦本部長と私が参加する事になりました。ムスリム世界連盟は1962年に設立された国際組織で、 その本部はサウジアラビアのメッカにあり、世界に40以上の支部をもって活動しています。 サウジアラビアのアブドラー国王とスペインのファン・カルロス国王による開会挨拶によって会議がスタートしました。

 アブドラー国王は開会の演説で「宗教間の対話が様々な世界、国際社会の問題解決への重要な役割を果たすであろう。 今日宗教への批判が多く聞かれるが宗教自体に問題があるのではなく、宗教の教えを間違って解釈している事が重要である。 宗教に対する批判は宗教間における歴史的葛藤に起因しているのではなく、テロリズムそのものに対する 批判であるべきだ」と述べられました。 国王のこの開会時の挨拶にそって会議が進められ、 最終日18日に出された『マドリード声明」には「対話こそが人類の理解、協力と交流における最も重要な道筋であり、 文化の多様性は人類の進歩と繁栄の原動力の1つである。テロリズムは対話と共存の主な妨げの1つであり、 テロは今や地球のどこでも発生している全世界的なもので、国際社会は共同でこれに対応し、世界の安定実現に取り組む必要がある」と結んでいる。 ムスリム連盟のアルツルキ事務総長も「今回の会議によって違った信仰を持つ人々も互いに尊重する事が可能である事を示し、 対話が調和と平和を促進する最も適したルートであることを証明しました」と述べました。

 キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教、神道に加え、 多くの様々な宗教指導者や宗教学者等およそ200名が参加したマドリード会議。ムスリム諸国の中でも保守的な國として知られ、 またムスリム世界で最も影響力をもつサウジアラビアのアブドラー国王の提唱によって開かれた事に大きな意味があったと思います。 会議開催にあたり、アレデリーコ・レンバルディールバチカン公式報道官は 「世界対話会議は正しい方向への重要な一歩であり、バチカンにとっても重要である」とコメントしています。


(写真下)島本本部長(当時)と参加者                






















「サミールナウリヨルダン駐日大使講演」

 2006年7月26日午後2時30分からナウリ大使の講演会(大本イスラエル・パレスチナ平和研究所主催)がホテル綾部を会場に開催されました。 講演の冒頭、大使は中東紛争、その中心となるパレスチナ問題について解りやすく解説されました。 とくにヨルダンという國が人口600万人弱で、その半数以上がパレスチナ人であるという環境において、 國の存立にはどうしても、イスラエル・パレスチナ問題を解決しなければならないと力説されました。

 ヨルダンは日本と同じように天然資源には恵まれていませんが、これも日本同様、人的資源に恵まれていますと語られました。 勤勉で向上心が強い国民性であるとの事でした。通訳を入れて1時間を超えるお話でしたが、特に日本が進める、 イスラエルとヨルダンが共同でパレスチナの経済発展に協力するプランについて多くの時間を割いて話されました。 政治的解決が重要な事はもちろんですが、経済的な向上がなければ、紛争は解決できないとの認識にたってお話されました。 40年近い外交官生活を終えヨルダンに帰国する1ヶ月前に、大使として、 最後の講演を綾部でさせて頂いた事は一生の思い出です、と講演後、通訳を務めた私に静かに語られました。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その54)主任研究員 矢野裕巳

「ハイム・ホシェイン公使」











2000年2月8日から

 2000年2月9日、綾部市とエルサレム市の友好都市宣言が綾部ITビルで調印されました。

 その前夜、私は綾部の「ゆらり」という地元のレストランでハイム・ホシェイン氏とビール片手に、 初めてお互いの事をリラックスした雰囲気 で語り合いました。 この最初の出会いでは、その後これほど頻繁に仕事を共にするとは考えもしませんでした。



慶応義塾大学への留学

 ホシェイン氏は1956年2月1日、イスラエル生まれ。 年齢では私より1歳年下ですが、日本流でいう学年は同じという関係からか、最初から打ち解けて相談する事ができました。 彼のお陰で、イスラエルの最新情報をかなり早く知ったことも何度かありました。 ヘブライ大学で国際関係論及び東アジア学で学士をとり、同大学院で東アジア学で修士号を取っています。 その後1982年から2年間、慶応大学へ留学しています。 この経験が彼の外交官としての方向性に大きな影響を与えたと思われます。


その後の大本との縁

 2001年の綾部での調印式時、ホシェイン氏は在日イスラエル大使館広報担当参事官としてその実現に尽力します。 4月の4代様葬儀にもイスラエル大使館を代表して綾部みろく殿に参列されました。 同年9月、イスラエル外務省北東アジア課長のポストを得て帰国。その帰国直前に天恩郷朝陽舘で教主様とご面談。 ちなみに5代教主様ご就任後、最初の外国人とのご面会者がホシェイン氏でした。
 2001年から2005年までの北東アジア課長時代、私はエルサレムで2度、彼と会っています。 2003年はイスラエル外務省で、2005年は外務省近くのホテルでした。 会えば必ず、大本の皆さんはお元気ですか?から始まり、別れ際は大本の友人達によろしくとの言葉がありました。

(写真下)京都歌祭りに参加したホシェイン氏(2006.4.30)





















再び日本へ

 2005年再び彼は日本に戻ってきます。 今度は大使の補佐、公使(副大使)の肩書きで。小国での大使就任を断り日本へのこだわりを主張したと私に話してくれました。


日本、大本を知り、エルサレムを知りそして大本歌祭を知る人物

 2006年4月30日京都での歌祭にイスラエル大使(エリー・ コーヘン)代理で出席。

 2008年4月17日の東京歌祭にも大使(ニシム・ベンシトリット)代理で出席。

 また2008年8月6日の天恩郷歌祭にも参加されました。3度の歌祭出席です。 私の知る限りこれほど多く正式に國を代表して歌祭に参加した人物は彼以外にいないでしょう。 日本を知り、大本を知り、エルサレムを知りそして大本歌祭を知るホシェイン氏が、 将来のエルサレムでの歌祭開催に、大きな役割を果たされるであろうと強く感じています。

(写真下)東京歌祭りに参加したホシェイン氏(2008.4.17)





















日本は私にとって単なる1つの任地ではない!

 2008年9月に再びイスラエルへ帰られる事になりました。 帰国前の8月6日、7日と亀岡、綾部を訪問。6日午後には亀岡で講演、そして歌祭へ。
 7日の瑞生大祭後の挨拶では、「大本の歌祭によって私達イスラエル人はアラブの代表者の方々と交流する事ができるのです。」と、 過去の歌祭出席での経験から話されました。
「外交官として多くの先輩や同僚が日本に赴任し、また日本を去っていきます。 それは外交官としての宿命で、ほとんどの外交官にとって日本も数年における任地の1つです。 でも私にとって、日本は単なる1つの任地ではなく、本当に第2の故郷であると思うのです。」と熱く語ってくれました。
 「今度日本に戻ってくる時はいよいよ大使ですね?」との私の問い掛けに「I hope so.」と短く答えてくれました。 2008年8月6日の夜、場所は再び綾部の「ゆらり」でした。

(写真下)本年、天恩郷での歌祭りと瑞生大祭参拝のホシェイン氏(2008.8.6)

 

アンカー 54
アンカー 55

誰にでもわかるパレスチナ問題(その55)主任研究員 矢野裕巳

「イスラエルとパレスチナ?」
 犠牲者数の発表


 2008年12月27日、イスラエル空軍がガザ地区全土に大規模な空爆を開始しました。 2009年1月3日には地上戦に突入。戦闘開始から3週間経った1月17日、イスラエルは一方的な「停戦宣言」を出し、部隊を引き上げ始めました。その直後ハマスも攻撃を停止。この戦闘においてパレスチナ人側では1300人以上が死亡、殺害され、その3分の1は未成年者だったとの事です。
 ただ、イスラエル軍の発表では、パレスチナ自治区ガザ攻撃(2008年12月27日~2009年1月18日)での死者数は1166名で、そのうち709人ははイスラム原理主義ハマスなどの武装勢力メンバー。一般市民の犠牲者は295人です。
 ガザ人権団体は死者数1417人、そのうち926人が一般市民であると発表としており、その数は大きく違っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




イスラエルとパレスチナ?の紛争

 現在のパレスチナ自治区はヨルダン川西岸(ただし実際には西岸の半分以上が入植地を 含めたイスラエルの支配下)とガザ地区に分かれています。つまりパレスチナ政府(暫定自治)は地理的に離れた2つの地域から構成されています。
 ヨルダン川西岸に200万人、ガザ地区に150万人のパレスチナ人が暮らしています。この2つの地域に東エルサレム(実質はイスラエルが支配)を加えて、3区分けと考えてもいいかもしれません。

 ヨルダン川西岸はファタハ、ガザ地区はハマスが支配しています。一般的にファタハは対イスラエル穏健派、ハマスは対イスラエル強行派と表現されています。今回のイスラエルのガザ攻撃はガザを実効支配するハマスに対する攻撃であり、ヨルダン川西岸を支配するファタハに対する攻撃ではありませんでした。多くの平和団体や宗教組織が今回の紛争に対して、イスラエル、パレスチナ双方に自制を望むとアピールしていた事に違和感を感じなければなりません。

 駐日パレスチナ総代表部代表のワリード・シアム氏はイスラエルの非人道的ガザ攻撃を非難すると同時にハマスのイスラエル国内へのロケット攻撃停止を強く望むとのコメントをマスコミに公表していました。その意味で、今回の紛争をイスラエル対パレスチナと表現するのは正確ではありません。一般民衆の気持ちは別にして、また罪なき同胞が被害を被る事への怒りは当然ですが、ファタハ指導部の内心はイスラエルがハマスに打撃を与える事には決して反対ではないはずです。



どちらがパレスチナの代表? ファタハ or ハマス

 2006年、1月25日、パレスチナ評議会総選挙は、米国の強い圧力によって実現しました。 ブッシュ大統領の「中東における民主化実現こそが世界平和のカギ」との強い信念によるものでした。ジミー・カーター前アメリカ大統領をトップにした、国際監視団のもと、極めて民主的な選挙が行われました。

  結果は選挙直前の予想に反して、132議席中73議席をハマスが獲得、長年パレスチナをリードしてきた主流ファタハは43議席という結果でした。世界中がこの結果に驚くなかで、もっとも驚いたのはハマス自身だったのかもしれません。公平な選挙で民衆から選ばれたハマスがパレスチナの代表である事を否定することは、できなくなったわけです。

 ハマスの勝利は、長年、世界各国からの援助金で私腹を肥やしてきたパレスチナ自治政府、ファタハへ対する怒りからきたと思われます。ハマスは対イスラエル自爆テロを実行する一方で、社会福祉や貧民救済に力をいれてきた実績が大きな勝利を導いたのでしょう。



ハマスを認めない

 選挙で勝利した後もハマスは、対イスラエル強行路線を続けました。イスラエルの存在を認めず、これまでイスラエルがパレスチナと築いた平和プロセスを否定。暴力によるパレスチナの解放を主張しています。これにも色々な考えがあり、イスラエル、アメリカがそのようにしむけていると主張する人たちもいます。

 しかし現実に日本を含む欧米各国の多くは、パレスチナ援助を打ち切ります。その後、ハマスとファタハの内紛が武力衝突を引き起こし、現在ガザはハマスが、西岸はファタハが支配しています。国際社会が注視するなか、行われた民主的選挙で勝利したにも関わらず、世界は選挙で敗れたファタハを支持し援助しています。

 イスラエルを含む国際社会は西岸地区のパレスチナを正当政府として承認し、ガザ地区のパレスチナはイランやシリア、スーダンといった反米国家のみが承認しているのが現状です。

 次回は2008年12月27日から22日間におよぶイスラエルのガザ攻撃の意図を探りたいと思います。また戦闘後のガザを取り巻く状況を2009年2月10日に行われた、イスラエル総選挙結果とも関連して考えてみたいと思います。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その56)主任研究員 矢野裕巳

「敵の敵は味方?」

 パレスチナ内部の紛争

 現在まさに進行中のパレスチナ問題を考える場合、対イスラエルのパレスチナ内部が2つに分裂している事が重要な点である事を前回書きました。2008年末に始まったイスラエルのガザ攻撃はパレスチナに対するものではなくハマスに対するものでした。
 現在のパレスチナ問題の焦点の1つはハマス対ファタハの権力闘争です。ヨルダン川西岸を支配しているファタハとガザを実効支配しているハマスの争いです。国を持たないパレスチナがパレスチナを代表する組織としてPLO(パレスチナ解放機構)を設立しました。ファタハはPLO内での最大の組織で、長年パレスチナを代表してきた事も述べてきました。



ハマスはムスリム同胞団から

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 イスラエルと対峙するハマスとはどんな組織なのでしょうか?公的な創設は1987年ですが、70年代前半からその前身とも言える組織が作られ、慈善団体的活動を始めます。ハマスはパレスチナ人被害者の救済機関として発足したのです。

 ハマスはまた、エジプトの「ムスリム同胞団」というイスラム原理主義グループの「ガザ支部」でもあります。ムスリム同胞団は原理主義グループの中では、比較的穏健派に属しますが、この分派とよばれる組織が多くのテロを引き起こしています。サダト大統領を暗殺したジハード団、日本人10名を含め63名を殺害した、いわゆるルクソール事件もこの分派であるイスラム集団による犯行だと言われています。

 ムスリム同胞団はシャリーア(イスラム法)による統治をめざし、イスラム国家の建設を目指すエジプトの事実上最大野党です。事実上と言うのは、エジプトでは宗教政党は禁止され、非合法化されているからです。

 選挙では無所属で立候補します。民主化の大きな流れの中で、ムスリム同胞団系の勢力は議会で最大野党の地位を占めています。エジプト現政権にとって、ムスリム同胞団の影響下で設立されたハマスが、ガザで、より大きな力となり、エジプト国内で力をつけてきた反政府組織のムスリム同胞団と連帯を強める事は大きな懸念となっているはずです。
 ファタハとハマスの和解への取り組みに最も力を注いでいるのがエジプト政府であることには、このような背景もあるのです。


 

イスラエルがハマスを育てた?

 イスラエルは70年代後半からハマスの前身である組織に対して直接的、間接的に資金援助してきました。当時PLO(ファタハ)が対イスラエル勢力として民衆の支持を得て、大きな力となってパレスチナ人をまとめる勢力に成長しつつありました。イスラエルはそれを統制する対抗勢力としてハマスを援助したのです。
 世俗的なファタハに対する宗教勢力としてハマスを育成しました。



アメリカがビン・ラディンを育てた?

 冷戦時代、米国は共産主義に対する有効な同盟者としてイスラム教徒を利用しました。旧ソ連軍が1979年、アフガニスタンに軍事介入すると、それに対抗するためアフガニスタンだけでなくイスラム世界の各地から志願兵として若者を集めました。
 米国はそのイスラム原理主義者をムジャーヒディーン(自由戦士)として膨大な資金を援助しました。後にアメリカ同時多発テロ事件を始め数々のテロ事件の首謀者とされるビン・ラディンもその一人でした。



敵の敵は味方 ?

 支配する国が支配する地域の抵抗勢力を分断し、弱体化させ、内部分裂を促す手法は、歴史上世界中で行われ、そして今でも行われています。かつて多くの領土を植民地化した欧米の国々もその占領地で同じ事を繰り返してきました。
 残念ながらかつての日本も例外ではないでしょう。植民地支配、占領における鉄則かもしれません。敵の敵を味方として援助しながら、その味方が自分の敵になる。人類が歴史上繰り返してきた過ちに、もうこの辺で終止符を打たなければならないと強く感じます。
 和平プロセスが停滞するなか、統一されたパレスチナの代表との交渉がなければ、本当の国の安全を確保できないことを正直に実感しているのは、イスラエル自身であるかもしれません。

誰にでもわかるパレスチナ問題(その57)主任研究員 矢野裕巳

「イスラエル右派政権誕生…和平へのプライオリティー」 
 4コマ漫画


 1コマ 小さな子供が大きな子に殴りかかる。
 2コマ 大きな子が「やったな、お返しだ」と殴り返す。そばで大きな子の父親が笑って見ている。
 3コマ その父親は、「相手が手を出してきたら100倍にして返してやれ」と大きな子に話している。
 4コマ ポカポカ殴り続ける大きな子とあおる父親。それを見ていたある夫妻。
     「まるでアメリカとイスラエルのような親子だなあ」と夫が言い、

     妻が「笑ってないで止めてあげなさいよ」と言う。
 2009年1月8日朝日新聞夕刊、4コマ漫画の内容です。


 小さな子ども・パレスチナ(ハマス)が大きな子ども・イスラエルに殴りかかり、お返しを受けている様子です。

 大きな子どもの父親はアメリカで、イスラエルとアメリカとの関係を痛烈に風刺しています。


どちらが先に手を出したか?

 
私個人としては、100パーセント的確に現状を表現しているとは思いませんが、中東情勢に関心を持つ人には話題になりました。イスラエルを擁護する人たちからの批判は予想される事ですが、親アラブと一般に言われている人たちからもマスコミの報道偏向だとして取り上げられました。

 その理由は最初に手を出したのがパレスチナ側(ハマス)と描かれている点です。この4コマ漫画だけでなく、ほとんどの日本のメデイアはイスラエルは自爆テロ、ロケット攻撃にたまりかね2008年12月27日のガザ攻撃に及んだ、と報道し、これは事実ではないというのが親アラブ派といわれる人達の批判の要点です。



ハマスが挑発

 ハマスは仲介のエジプトの強い要請を無視し、イスラエルとの停戦延長を拒否しました。2008年12月19日からイスラエルによるガザ空爆開始の12月27日まで300発近いロケットをイスラエル南部に打ち込みました。

 そもそも、ハマスのロケット攻撃の要因を作ったのはイスラエルである等の議論とどちらが紛争を誘発したかは別の問題であると思います。

 少なくても攻撃されて空爆に踏み切ったとのイスラエルの言い分を、ハマスはイスラエルに与えてしまったと思います。太平洋戦争緒戦で日本が真珠湾を攻撃したのは、理不尽な欧米列強の経済封鎖にあったと主張したとしても、日本が最初に攻撃した事実を否定することはできないと思います。



選挙を控えて

 政権を担当する与党のカディマ、労働党にとって2009年2月10日の総選挙を控え、自国内に打ち込まれるロケット攻撃を容認することはできなかったでしょう。選挙を控えた政府が国民の安全を守るという姿勢を示したのでした。
 本当の目的はハマスを弱体化させ,イスラエルの存在を認めるファタハがガザで力を盛り返す事を望んでいたと思います。また2006年のヒズボラとの戦争で失いかけた戦争抑止力を回復したいと考え、イスラエルを攻撃すれば、その代償は大きい事をアピールするものでした。



選挙の結果

 選挙の結果はよくいわれることですが、イスラエルにとっての「和平」のプライオリティ(最優先課題)は、パレスチナ人やアラブ人と仲良くやっていこうという事ではなく、イスラエルの安全確保。戦争、テロの恐怖を取り除く事です。2009年2月10日のイスラエル総選挙はそのイスラエル人の安全保障に対する考えが結果として表れました。


右傾化

 
カディマ、労働党の連立政権による大規模なガザ攻撃の後も、ハマスによるロケット弾攻撃は完全に止まっていません。またイスラエルを敵視するイランの脅威も増してきたと、イスラエルの人たちは考えているようです。 そのような中で、2月10日の選挙ではパレスチナ人との共存を考えるより、自分たちの安全を第一との考えから、世論が大きく右傾化しました。

 右派リクード党首のネタニヤフ元首相が首相に返り咲き。対パレスチナ強行派で1996年から1999年までの首相時代には中東和平は大きく停滞しました。リーベルマン新外相は超タカ派の政治家で、イスラエル国籍のアラブ人排斥を訴えています。中東和平に積極的に取り組もうとするアメリカ、オバマ政権と今後どのように折り合いをいをつけるかが、中東情勢の今後の焦点になるでしょう。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その58)主任研究員 矢野裕巳

「イスラエル政府の行動に疑問を投げかけるユダヤ人」
 入植地はベッドタウン?


 宗教的な信条により住み始めた、初期の入植者とは違って、現在では一般よりはるかに安く分譲される住居を求めて入植する人が多くなっています。入植地とテルアビブやエルサレムを結ぶ道路網が整備され、入植地は大都市の会社に勤める人のベットダウンになっている例も珍しくなくなっています。現在西岸には、およそ50万人のユダヤ人入植者が住んでいると言われています。


イスラエルの主張

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 国際法上、占領地への入植は違法です。イスラエルは西岸を占領地ではなく、「係争地」と考えています。つまり自国と西岸の境界(国境)を今後の交渉課題と解釈。イスラエル政府が承認していない入植地のみを違法と考えています。

 イスラエル政府が公式に承認した入植地は西岸に121地区。イスラエル政府の公式承認を得ていない違法入植拠点は102地区あると言われています。



国際社会の主張


 占領地でのイスラエルによる入植地拡大は現在でも進行中。これは、国際法そして国連安保決議に完全に違反。イスラエルがどう主張しても占領地の領土化です。

 2009年6月4日、エジプトカイロ大学での演説(タイトルは New Beginning)でアメリカ・オバマ大統領は、次のように語りました。

 「イスラエルはイスラエルの生存権が否定できないように、パレスチナ人の権利も否定できない事を認めるべきである。アメリカはイスラエルの西岸での継続的入植の正当性を認めるものではない。イスラエルの西岸への入植は過去の合意に違反し、和平達成の努力を損なうものである。イスラエルは入植を中止すべきである」、そして「あまりにも多くの涙が流されてきた。あまりにも多くの血が流されてきた。我々すべてはイスラエル人、パレスチナ人の母親たち恐れを抱くことなく子どもが成長することができる日の実現のために責任を負っている」。
 



入植者数増加は「自然増」?


 パレスチナ和平最大の障害の1つであるユダヤ人入植地問題。私は最終的には、イスラエルが占領地からほぼ完全に撤退しなければ和平は実現しないと思います。しかし現段階では撤退どころか拡大を凍結することも実現していません。入植活動凍結を求める仲介役の米国に対して、イスラエルは入植者人口増加を「自然増」と主張し、凍結を拒否しています。通常「自然増」とは出生数が死亡数を上回ることですが、入植者人口増の多くは格安住宅を求めてイスラエル領内から移住するケースも多いと言われています。



ジェフ・ハーパー博士

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  写真:ジェフ・ハーパー博士

 2009年6月21日、東京杉並の立正佼成会大聖ホールで「イスラエル・パレスチナにおける和解の取り組み」をテーマにシンポジウムが開催されました。私もパネラーの1人として参加しました。
 基調講演をしたイスラエルのジェフ・ハーパー博士は1997年、ICAHD(Israeli Committee against house demolition )「家屋破壊に反対するイスラエル委員会」を設立。イスラエルの占領に対して抵抗を続けるユダヤ人です。イスラエル政府によるパレスチナ人の家屋の破壊を、非暴力行動で阻止し、破壊された場合は再建を支援する活動を続けておられます。その活動に対してノーベル平和賞の推薦も受けています。

 博士のようにイスラエルの行動に対して断固として抗議するユダヤ人が増えていると思います。歴代の大統領に比べて、よりイスラエルに強く譲歩を迫るオバマ大統領の言動も、その背景にイスラエル政府の行動に少しく疑問を感じるユダヤ系アメリカ人の存在が大きいのかも知れません。





 

 

 

 

 

 

                 (写真左)パネラーとして参加した筆者

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その59)主任研究員 矢野裕巳

「ユダヤ人であることとイスラエルを否定することは矛盾しない」

 

 前回に紹介した、ジェフ・ハーパー博士と同様、現在のイスラエル政府の対パレスチナ制作を強く批判する二人のユダヤ人学者を紹介します。

 

サラ・ロイ博士


 米国ハーバード大学中東研究所上級研究員のサラ・ロイ博士はガザ研究の第一人者です。両親はポーランド系ユダヤ人で、強制収容所から生還、第2次世界大戦後米国に移住しました。つまり、彼女はホロコースト生存者の娘として米国で生まれました。
 2009年3月5日、私は京都大学での彼女の講演を聞く機会を得ました。


 

同じ論理で


 両親は敬虔なユダヤ教徒で、ロイ博士は幼い時から幾度となく両親に連れられイスラエルを訪問していました。ホロコーストの犠牲となった同胞を「弱いから、力がなかったから殺されたのだ」と、多くのユダヤ人が繰り返し語る姿が今も強く記憶に残っていると博士は語っています。
「パレスチナ人にも同じ論理で現在攻撃しているのではないか?」
この疑問が現在の研究に取り組むきっかけであったと語っています。


 

占領とは何を意味するのか?


 1985年、博士論文を書くため、彼女は西岸とガザを訪問しました。そこで目にしたのはイスラエル兵のパレスチナ人への信じられない虐待でした。その夏、彼女の人生が変わったといいます。占領とは何か、占領とは何を意味するのか、それを彼女自身が身をもって理解したのです。その体験は幼い時、彼女の両親が語ったくれた逸話の数々とあまりにも類似していました。ナチスドイツ兵のユダヤ人に対する辱めと。

 

痛みの同族化?


 どうして私たちユダヤ人はパレスチナ人の基本的な人間性を受け入れられないのだろうか?
 彼らを自分たちの倫理観で受け止めることができないのだろうか?
と彼女は問いかけます。
 「私たちは自分たちが虐げているパレスチナ人と、いかなる人間的なつながりも拒絶している。単に、痛みの同族化、人間的な苦しみを被っているのは自分たちユダヤ人だけだという考えに固執しているように思える」と語っています。


 

ユダヤ人知識人のダブルスタンダード


 

 

 

 

 

 

                                                                      ヤコブ・ラブキン教授を迎えての「シオニズムを考える」勉強

                                                                      会。亀岡大本本部第三安生館ミーティングルームにて

                                                                     (2009.6.29) 

 世界中の人種差別・弾圧・不正義に抗議する多くのユダヤ人知識人が存在します。しかし、そんなユダヤ人知識人もイスラエルが加害者である場合は、それに反対することを受け入れられない現実があると彼女は語っています。

 それどころが、背教行為だと非難する人もいて、こうしたダブルスタンダードは絶対に終わりにすべきだとロイ博士は強調されています。


 

ヤコブ・ラブキン教授


 旧ソビエトのレニングラード(現サンクトペテルブルグ)生まれのユダヤ人、ヤコブ・ラブキン、モントリオール大学教授は2009年6月29日から7月1日まで、亀岡、綾部を訪問。6月29日には亀岡大本本部で開催された「シオニズムを考える」勉強会の講師としてお話しいただきました。
 同志社大学一神教学際センターの招待で2度目の来日となった教授は、大阪大学、東京大学、広島大学、筑波大学等で精力的な講演をこなす合間の大本滞在でした。


 

シオニズムに反対するユダヤ人


 国際社会の流れは、パレスチナ国家を樹立し、イスラエルとの2国18間平和的共存がパレスチナ和平へのロードマップと考えています。これに対して、ラブキン教授は1948年のイスラエル建国にはじまる矛盾が解消されなければ、たとえパレスチナ国家が誕生してもこの地域の安定は期待できないと考えています。
 つまり、イスラエル建国思想であるシオニズム(パレスチナの地にユダヤ人の国を創るという考え)を根本的に見直さなければ、地域の平和は保てないと考えています。イスラエル建国に伴い多くのパレスチナ人に悲劇が起こった事実に背を向けず、この過ちを認めることから始めなければならないと訴えています。シ オニズムは間違いだったと。


 

一国共存にむけて

 ラブキン教授はさらに、イスラム原理主義組織と言われるハマスやヒズボラも、シオニスト国家であるイスラエルを非難しているのであって、ユダヤ人を憎んでいるわけではないと断言しています。実際オスロ合意を含むすべての2国家間平和共存案は頓挫しています。ユダヤ人の為のイスラエル国家といった考えを捨て、パレスチナとの1国共存に向けた解決策を探るべきだというのが教授の考えです。
 「あまりにも理想的ですね」と述べる筆者に対して、「もうすでに、イスラエルは人口的にはユダヤ人国家ではない」とラブキン教授。「人口の3割は非ユダヤ人でその割合はどんどん大きくなっています」 と、静かに語っておられたのが、印象的でした。


 

ユダヤ人としてのアイデンティティー


 サラ・ロイ博士、ヤコブ・ラブキン教授も共に、ユダヤ人としてのアイデンティティーをしっかり持っています。ロイ博士は、両親から受け継いだものは、ユダヤ人の精神、寛容、共感、人の救済であり、これをしっかりと携えて生きていると語っています。
 また彼女にとってのユダヤ教とは証言すること、不正に対して怒り、沈黙しないことで、それは共感、寛容、救援を意味すると述べています。

 ラブキン教授は、敬虔なユダヤ教徒で、安息日には車に乗らず、マイクも使いません。もちろん食事もコーシャー(ユダヤ教の食事規定)をしっかり守っています。ユダヤ人であることとイスラエルを批判することは矛盾しないのです。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その60)主任研究員 矢野裕巳

 

「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教」
 改めてパレスチナ問題の基本から

 パレスチナ紛争の根本原因が宗教間の対立ではないことは、本誌で紹介してきました。 かつて、自分の祖先が住んでいた土地に2000年を経て帰ってきた、ユダヤ人とその間にこの地に暮らしてきたアラブ人との間の土地争いが根本原因です。そして現在のパレスチナ紛争は何千年も続いてきた争いではありません。ユダヤ人、アラブ人がこの地域で平和に共存した歴史も存在します。英国が第一次世界大戦中に約束したこの土地に対する2つの権利証が争いの始まりです。英国に協力して、オスマントルコを倒せば、パレスチナの地にそれぞれの国やナショナルホームを建設することをゆるすとの権利証です。英国はこの権利書をユダヤ人とアラブ人に発行したのでした。


ユダヤ教徒の国イスラエル とイスラム教徒が住むパレスチナ?


 先日、あるテレビ番組の特集でパレスチナ問題が取り上げられていました。その時、レポーターの1人は、「ユダヤ教を信じるイスラエルとイスラム教を信じるパレスチナのまさに骨肉の争いとなっています」とコメントしていました。よくある誤解ですが、イスラエル人=ユダヤ教徒ではないのです。イスラエル人のおよそ20%はパレスチナ人です。またパレスチナ人の少なくても10%はキリスト教徒です。パレスチナ系キリスト教徒はイスラム教が生まれる以前からこの土地に住んできた人々です。カトリックや東方教会等伝統教派の人々が大半ですが、プロテスタントを信じるパレスチナ人もいます。パレスチナ人=イスラム教徒ではないのです。


3つの一神教 


 宗教が根本対立の一番の原因でないにしても、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であるエルサレム紛争はパレスチナ問題解決には非常に重要だと思います。また宗教が関わる争い、あるいは宗教の名を使った紛争もこの地域に多く見られます。


ユダヤ教→キリスト教→イスラム教 


 一柱の神のみを信仰する一神教は、ユダヤ教から始ります。一神教を最初に考えだしたのはユダヤ人です。神は唯一であり他に神はないという考えは、現在では普通のようにいわれますが、最初にその考えを生み出したのはユダヤ人です。それは「造物主」の確立です。造物主は宇宙間の万物を造った神であり、この世界は人間の命も人間自身もすべて神が生み出したという考えです。


 ユダヤ教の成立は紀元前538年ごろといわれています。イエスが生まれたのは紀元前4年ごろでキリスト教がローマの国教となったのは392年、イスラム教は610年ごろにムハマッドが神の啓示を受けて始ります。発生順にいえば、まずユダヤ教が生まれ、そこからキリスト教が、そしてさらにイスラム教が生まれました。ユダヤ教、キリスト教ではヤハウェ(エホバ)、イスラムではアッラーと呼び名は違っても3つの宗教の源は1つであり、それぞれが唯一絶対神を崇拝する一神教です。


 次回からは3つの宗教の共通点を土台にし、それぞれの特徴を歴史を振り返りながら詳しく、かつ解りやすく述べたいと思います。神道や仏教等の宗教とも比較しながら学びましょう。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その61)主任研究員 矢野裕巳

 

「ユダヤ人はなぜ迫害されてきたのか?」


 ”ユダヤ教=旧約聖書
 キリスト教=旧約聖書+新約聖書
 イスラム教=旧約聖書+コーラン”

 3つの宗教では、旧約聖書が共通になっています。これを見ても彼らの神が同じ絶対神であると思います。ちなみに旧約、新約と聖書を分けるのは キリスト教の考え方です。
 神がイスラエルの民とのみ交わした最初の契約を「旧約」、神がイエスを人々の元へと遣わす事によって、全ての人々と結んだ新しい 契約を「新約」といいます。ふたつの契約を区別するために、キリスト教の視点から付けられた名称です。

 ユダヤ教では、旧約聖書を聖書と呼んでいます。イスラム教で、もっとも偉大な預言者はムハンマドです。そのムハンマドの言葉を集めたコーランを一番重要な経典にしていますが、旧約聖書にも敬意を払っていま す。
 それぞれ偶像崇拝を禁じていますが、キリスト教、特にカトリックではイコン(聖像)、聖マリア像などがあり、ユダヤ教やイスラム教からみると偶像と思えるものも存在します。


 

ユダヤ教とキリスト教の大きな違いは?


 ユダヤ教とキリスト教の大きな違いは、イエスを救世主と認めるかどうかだと思います。旧約聖書の中に、救世主メシアの到来の記述があります。キリスト教ではイエスを救世主としていますが、ユダヤ教では救世主は未だ降臨していないのです。

 ユダヤ教ではユダヤ人こそ唯一、神に選ばれた民であり、神との約束を実践すればやがて救世主が現れ、ユダヤ人の為の神の国が創られると教えられていま す。キリスト教はユダヤ人社会から生まれた新しい宗教で、イエス・キリストは、ユダヤ人だけでなく人類全体をその罪から救う為に身代わりとなり、磔になっ たと考えられています。ユダヤ人を対象にした民族色の強いユダヤ教、人類全体を救いの対象とするキリスト教と言えるでしょう。


 

ユダヤ教とイスラム教の積年の争い?


 現在のパレスチナ問題を宗教問題と結びつけて、ユダヤ教徒とイスラム教徒が長年にわたって、憎しみ合い、争いを続けてきたかのように考える人が多いかもしれません。
 しかしユダヤ教徒とイスラム教徒が、友好関係を維持してきた歴史もかなり存在します。ユダヤ人への迫害は、イスラム教徒よりもヨーロッパのキリスト教徒がその責任を負わなけ ればならないと思われます。この事についても少しずつ、学んでいきましょう。
 まず、ユダヤ教とユダヤ人の歴史を日本人のもつ印象と共に述べたいと思います。


 

ユダヤと名のつく出版物


 Jewish Studies(ユダヤ学)やJewish History (ユダヤ史)のような出版物は世界中で出版されています。ユダヤ人の各分野における業績から考えれば当然かも知れません。

 欧米の有名大学には、ユダヤ研究 なる組織が必ず存在します。また国際的なユダヤ研究の学会も毎年世界の各地で開かれています。
日本でも多くのユダヤと名のつく書籍が発行されています。その内容は主に2つに分かれていると考えられます。

 1つはビジネス関連。一言でいえば、ユダヤ人がいかに金儲けに優れているのかを説明しています。中には一般のユダヤ人が聞いたこともないようなユダヤの 格言と組み合わせて述べているものもあります。
 もう1つは、日本人がいかにユダヤ人と似ているかを、神道の伝統や建物、あるいは、ヘブライ語と日本語の類似点を強調する事が骨子の書籍です。中には、日 本人もユダヤ人も同じ民族であると断言しているものも少なくありません。これらの内容は学問としてのユダヤ学とはかけ離れたものでしょう。


 

日本人とユダヤ人


 1970年、イザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」が出版され、大ベストセラーになりました。
 当時本誌まつごごろにも青年への推薦図書として載っていました。著者のイザヤ・ベンダさんは実在の人物ではなく山本七平さんでした。 多くの人がこの本を読まれていると思いますが、「日本人は、安全と水はタダだと思っています。」は印象的な言葉で、様々な場面で引用されています。日本の 安全保障政策が世界から見て、ユダヤ人から見て、いかに幼稚であるかを示しています。日本人の特質を語るのに、ユダヤ人がその比較の対象として使っています。

 前駐日イスラエル大使エリー・コーヘン氏は、昨年2008年、「驚くほど似ている日本人とユダヤ人」を出版。大使時代、亀岡、綾部に来られた時にも日本人とユダヤ人の類似点を強調されていました。マーヴィン・トケィヤー氏なども日本神道の風習と古代イスラエルの風習がいかに似ているかについて書いた本が山のようにあります。
 要は、世界中で出版されているユダヤに関する書籍のなかで、日本でのユダヤに関する本は特徴的にそのほとんどが、日本人のアイデンティティを語るためにユ ダヤ人の思考や風習を記述しているのです。


 

ユダヤ人はなぜ迫害されるのか?


 紀元後70年、エルサレムの陥落、第2神殿の破壊。以降、世界に離散した、国を持たないユダヤ人は、1948年のイスラエル建国までの間、その移住先の地域の人々とは同化せず、自分たちのアイデンティティを維持してきました。
 それは、ユダヤ教という独自の宗教共同体を持ち、それを守る事によって共通の意識を共有してきたからです。同時に自分たちの信仰に対するその強い信念が、キリスト教社会から強い反発を買ったのだとも言われています。
 ただ私自身は、少なくても近代におけるユダヤ人差別は、イエスを処刑したユダヤ人を憎むといった宗教的偏見ではないと思います。教育水準が高く、経済、金融面での実力が移住先で顕著になるにつれ、移民に自国を乗っ取られたくないとの民族主義的な考えを持つ人たちにより差別や弾圧が行われたと考えます。
 近代国家の諸制度を巧みに利用しながら社会に進出するユダヤ移民への、ねたみと憎悪が出発点であると、私は考えます。
 次回はこのようなユダヤ人の苦難の歴史を勉強していきたいと思います。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その62)主任研究員 矢野裕巳

 

「ユダヤ人迫害の歴史を映画を通して考える」

 

十戒


 ユダヤ人の迫害の歴史は、ユダヤ人であるイエス・キリストがユダヤ人によって殺害された時より1300年も前に始まっています。 チャールトン・ヘストン主演の「十戒」という映画を見た人は多いでしょう。
 これは旧約聖書に書かれている「出エジプト記」を土台にストーリーが展開します。多くのユダヤ人は当時エジプトで奴隷として差別を受けながら生きていました。その後モーゼが出現し、迫害を受けていたユダヤ人を率いてエジプトを脱出。シナイ山で十戒を授けられます。特定の反逆者や罪人に限らない、民族という大きなくくりの中で、ユダヤ人という限定された民族への最初の迫害史だと思います。


 

屋根の上のバイオリン弾き


 1964年のアメリカミュージカル。1905年ごろのウクライナ地方(帝政ロシア)シュテットル(東欧のユダヤ人コミュニティで19世紀のユダヤ社会の中心)に住むユダヤ教徒の生活を描いた内容です。牛乳屋を営むユダヤ人一家の人生が描かれています。
 次第にエスカレートしていくユダヤ人迫害は、終盤でユダヤ人国外追放に進みます。一家も着の身着のままで、住み慣れた村から追放されるところで終わります。
 反ユダヤ傾向の強い当時の東欧ではポグロム(ロシア語で破壊、破滅を意味する。ユダヤ人に対して行われる集団的迫害行為)の嵐が起こっていました。これによりユダヤ人のパレスチナやアメリカへの人口移動が進み、シオニズム運動(ユダヤ人の国を創設する)の大きな契機の一つになりました。
 日本では1967年、東京帝国劇場で初演。テベィエ役は1986年まで森繁久彌が900回にわたり務めています。1971年に映画化もされました。哀愁 を帯びたバイオリンの効果的な響きも印象的です。私はテビエ役のハイアム・トポルの何ともいえない表情が大好きでこの映画は何度も見ています。


 

アンネの日記


 1933年、ユダヤ人迫害政策を掲げるナチス党党首アドルフ・ヒットラーがドイツ国首相に任命されました。これによりユダヤ系ドイツ人の多くは国外に亡命することになります。アンネの父オットーもオランダへ逃れる決意を固めました。そのオランダも1940年にドイツが占領。ユダヤ人狩りが頻繁に行われ始めました。
 1942年から一家は隠れ家での生活を余儀なくされます。1942年6月14日から1944年8月1日までの隠れ家での生活を記した、「アンネ・フラン クの日記」は彼女の死後、世界各国で出版されベストセラーになり、映画化もされました。
 アンネは1944年8月4日アムステルダムでゲシュタボ(ナチス秘 密警察)に捕まり1945年3月12日、強制収容所で病死します。満15歳でした。 


 

シンドラーのリスト


                 アウシュビッツ強制収容所内の一室

 1993年、ユダヤ系米国人スティーブン・スピルバーグ監督による「シンドラーのリスト」が公開されました。ナチスによるホロコースト(第二次世界大戦 時のドイツによるユダヤ人虐殺)進行中、ドイツ人実業家のオスカー・シンドラーがおよそ1200人のユダヤ人の命を救ったという実話をもとにした映画です。ナチス政権のホロコーストによって殺害されたユダヤ人は一般的に600万人とされています。それは、当時の全世界のユダヤ人の3分の1にあたると言われています。

 

アウシュビッツで考えたこと


                 ビルケナウ(アウシュビッツ第2強制収容所)の鉄道引き込み線 

 私は、2009年9月8日、初めてアウシュビッツを訪問しました。アウシュビッツには3つの強制収容所跡があります。その2つを見学しました。第1強制収容所の入り口には、「働けば自由になる」という一文が掲げられています。
 1940年ドイツ国防軍が開所。30の施設がありました。その中で最も印象に残ったのは、女性の髪の毛が大量に展示されているコーナーでした。

 

 

 

 

 

 

 

                  山のように積まれた毛髪 

 アウシュビッツへ送られたユダヤ人女性は即座に髪の毛を剃られ、それはドイツ本国に送られてマットレス等に加工されました。毛髪から作られた生地も展示されており、訪れた人は皆絶句してしまいます。
 アウシュビッツ第2強制収容所ビルケナウは、1941年、まさに絶滅収容所として開設されます。東京ドーム37個分の広さで300以上の施設があったそうで、およそ9万人が収容されていました。

 人類が侵したユダヤ人迫害の長い歴史のなかでも、最も大きな負の遺産といわねばならないでしょう。あまりにも悲惨な歴史を目の当たりにして、人間がここまで残酷になるのかと改めて感じるアウシュビッツ訪問でした。 歴史に残る反ユダヤ人主義の一端を考察するだけでも、現在のパレスチナ問題でのイスラエルの過剰とも思える防衛意識、被害意識の理由が見えてくるようです。


 次回はこのようなユダヤ人の苦難の歴史を勉強していきたいと思います。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その63)主任研究員 矢野裕巳

 

「預言者を通してユダヤ教、キリスト教、イスラム教を考える」

 

預言者


 預言者(よげんしゃ)とは、神と直接接触・交流・対話し、直に聞いたとされる神の言葉を人々に伝え広める者のこと。(フリー百科事典ウィキペディアより)
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の最大共通点は、唯一神の存在とその神から使わされた、預言者の存在です。ただ、同じアブラハムの宗教(聖書の預言者 アブラハムの宗教的伝統を受け継ぐと称するユダヤ教、キリスト教、イスラム教)であっても、どの預言者を最重視するかのよって3つの宗教を比較することが できると思います。
 ちなみに、未来や人の運勢を語る者は「予言者」であり、神の言葉を預かるのが「預言者」です。


 

トーラ=モーゼ5書(聖書のなかの聖書)


 ユダヤ教では男の子が13歳になるとバル・ミツバと呼ばれる成人式を行います。女の子は12歳で、バト・ミツバと呼ばれる式を行いますが、こちらの方は歴史が浅く、今でも、正統派ユダヤ教徒には受け入れられていないようです。
 私は1999年の4月、米国ミネアポリスのシナゴーグで男の子の成人式バル・ミツバに参加した経験があります。成人式の準備として、少年はトーラ(律 法)を学び、本番ではその一節を朗読しなければなりません。トーラを立派に朗読できれば、正式にユダヤ教徒として扱われます。
 旧約聖書の最初の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記をトーラと呼びます。神がモーゼに伝えた言葉として、またモーゼ自身が著したとされるため、モーゼ5書と呼ばれています。
 ユダヤ人にとってトーラは神から人に示された神聖法典で、モーゼに伝えられた言葉こそが神の永遠の掟であり、まさに聖書の中の聖書なのです。旧約聖書の 中には多くの預言者の名が登場しますが、ユダヤ教徒にとって最古にして、最高の預言者はモーゼ以外は考えれないと思います。


 

メシア(救世主)であるイエス 


 キリスト教でも旧約聖書に現れる預言者を認める点では、ユダヤ教と同じです。多くの預言者がモーゼ以降登場した後にイエスが出現します。キリ スト教ではイエスを預言者以上のメシア(救世主)として、神が遣わされたとされています。イエスをメシアと信じる人たちのことをキリスト教徒と呼んでいま す。ユダヤ教徒とは違って、モーゼは多くの預言者の1人として考えています。
 

イエスは人であると同時に神であ


 イエスを預言者以上のメシアであると考えるキリスト教の特徴は、三位一体論にあります。三位一体とは、父、子、聖霊が一体、つまり唯一神で あるとする教理です。父なる神、子なるイエス、そして精霊は3つに分かれているようでも、本質的には同じものであるとされます。つまり同一の本質を持ちつ つも、互いに混同し得ない区別された3つの、父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神があると考えることです。

 キリスト教も多くの教派に分かれていますが、大多数はこの三位一体論を教義としています。これはキリスト教が生まれた1世紀にはなかった考えでした。4世紀になってキリスト教学の確立とともに論争がおこり、大部分の教派がこれを受け入れました。
 まったく個人的な疑問ですが、もしキリスト教が多神教的、あるいは汎神論的(一切万有は神であり、神と世界は同一であるという宗教観)な考えをまったく排除する一神教とするならば、イエスの地上での祈りの対象は自分だったのでしょうか?


 

最後の預言者 


 イスラム教では、モーゼを含むユダヤ教の預言者も、イエスも預言者の1人として受け入れています。コーランによれば、ユダヤ教徒もキリスト教 徒もイスラム教徒と本質的に同じ信仰をもつ「経典の民」として語られています。またコーラン(イスラム教の成典)にはイーサー(イエス)をナビー(預言 者)とする記述がたびたび出ています。ただし、あくまでも数ある預言者の1人として考えられています。

 イスラム教では、イーサー(イエス)は十字架にかかっておらず、別人が十字架に磔にされたと考えられています。イーサーは一預言者として神から与えられた自分の使命を全うしたのです。しかし、イーサーをメシア(マスィーフ)とは認めていません。

 イスラム教ではムハンマドはモーゼ、イエスまたその他の預言者に続く、最後にして最高の預言者です。神はムハンマド以前の預言者には神の教えの1部しか伝えてなく、それまでの預言者の教えが不完全に、あるいは誤った形で伝達されていると考えています。
 そこで、最後に出てきたムハンマッドこそが、神の教えを完全な形で伝える最も優れた預言者なのです。


 

◆”預言者の宿命”

 それぞれの宗教を信じる敬謙な信徒としての立場からは、すべては神の御心にあると考えるでしょう。しかし客観的にそれぞれの宗教を考察すると、これらの預言者は、今自分たちが置かれている状況をどう考えるだろうかと想像してしまいます。
 イエスはユダヤ教徒として生まれ、ユダヤ教徒を改革しようとしましたが、キリスト教といった新しい宗教を作ろうなどとは考えていなかったはずです。ましてや、三位一体論といった教義はイエス自身の思考にはなかったはずです。
 ムハンマド自身は「旧約の預言者達よりも私の方が優れていると言ってはならない」との言葉を残しているようです。現在のように「預言者ムハンマドは完全 であり、最大の預言者である」との考えはイスラム法学者の解釈であり、「最大の予言者」との概念をムハンマド自身が否定していたことも理解しておいた方がいいかも知れません。


 

番外


 イスラムはイスラム教とは言わないと強く主張する人がいます。回教やマホメット教と書かれているものもあります。またモハメッドではなく、ム ハンマッド、コーランをクルアーン、モーゼをモーセだと述べる人がいますが、これらは、要するに翻訳の問題です。 できるだけ言語に近い形で示そうとするのかもしれませんが、あまり本質的な議論ではないので、本誌では一貫して同じ使い方に統一していきたいと思います。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その64)主任研究員 矢野裕巳

 

「安息日を通してユダヤ教、キリスト教、イスラム教を考える」

 

ご迷惑をおかけします?


 「明日から3日間ご迷惑をおかけします。」、「しばらく勝手いたします。」
 翌日から休暇を取る前日の事務所の挨拶風景です。また電話での「誰々は今日お休みを頂いています。」という対応。
 本心からそう思っているかどうかは別にして、いかにも日本的な会話です。これらの表現を外国語で直訳は出来ないだろうと考えてしまう私は、長年の英語教師の経験や、通訳、翻訳業務に関わってきた一種の職業病かもしれません。
 欧米の感覚では、休暇を取るのは当然の権利で、欧州ではひと月のヴァカンスは普通です。米国でも2週間程度の休暇を取るのは普通の事です。

 数年前、私は高校の同窓会に初めて参加しました。人事管理を担当している1人が、「最近の若い連中は休む事を当然のように思っている。これからの日本が心配だ。」と発言。それに多くの参加者が同調していました。私は彼らとは意見を異にしていましたし、そもそも「最近の若い連中」との言葉に違和感がありましたが、それぞれ管理職として苦労しているのだろうと静かに聞いていました。

 事実、現在の若い人達の休暇に対する考えは西洋化しているのかもしれません。すべて西洋の真似をする事はないのですが、仕事からある一定の期間離れて、仕事以外の事に没頭する事は必要だと思います。現在のような不況下においては、そんな悠長な事は言ってられないでしょうが、休暇を当然の権利として考える事は人間生活にとって、社会全体にとって、本来あるべき姿だと思います。


 

働かなくてもよいのではなく、働いてはいけない!


 旧約聖書では、神は6日間で世界を造られ、7日目に休まれました。安息日(あんそくにち、あんそくび)は働かなくてもよいのではなく、働いてはいけない日です。権利ではなく義務なのです。
 イスラム教は金曜日、ユダヤ教は土曜日、キリスト教は日曜日が安息日(休日)となります。週休2日の場合、イスラム教は木・金、ユダヤ教は金・土、キリスト教は土・日がそれぞれ休日となります。
 イスラム教の考えは当初ムハンマドの故郷メッカでは受け入れられず、多くの迫害を受けます。その為、一時的にメッカを離れて布教する事になります。これをヒジュラと呼んでいます。アラビア語でヒジュラは「移住」を意味し、新しい関係を築くというニュアンスがあるそうです。
 その為、イスラム教ではムハンマド がメッカを脱出した金曜日を安息日としています。
 毎金曜日には厳粛な集団礼拝がそれぞれのモスクで行われます。この金曜日の礼拝前に、その地域のイマーム(指導者)が説教を行います。

 キリスト教も初期の頃は、土曜日を安息日にしていましたが、後にキリストの復活を記念して日曜日に変更しています。通常キリスト教の安息日は日曜と説明されますが、いまでも、多くのキリスト教宗派では聖書に書かれているように土曜日を安息日としています。


 

安息日の操業


 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のなかで、もっとも厳格に安息日を守るのはユダヤ教です。金曜の日没から土曜の日没まで一切の労働を禁止しています。料理や車の運転等は厳禁です。戒律の厳しい地区では外国人でも運転中に石を投げつけられる事はよくあるそうです。

 2009年11月14日、半導体世界最大手インテルのエルサレム工場に、ユダヤ教超正統派2,500名がデモに押し掛けました。デモ参加者は「シャバッ ト(安息日)」「シャバット(安息日)」と叫び、土曜日(安息日)の工場封鎖を要求。工場が、ユダヤ教の安息日を守らず操業している事に対する大抗議行動 だったのです。


 

各階停車のエレベーター


 イスラエルのホテルには通常のエレベーターに加えて、ボタンを押さずに動く各階止まりのシャバット(安息日)用エレベーターがあります。そう、ボタンを押す事は労働なのです。私自身が体験したエピソードを2つ。
 1993年、京都府綾部市で世界宗教者会議が開催されました。私はユダヤ教代表のシュロモ・ゴレン師(イスラエル主席ラビ)の担当として大阪空港でお迎えし、京都市内のホテルに案内しました。その日は安息日でした。私はラビに代わってスイッチを押すのに大変忙しかった事を覚えています。

 2005年4月、私はテルアビブのホテルに宿泊していました。金曜の深夜12時前にホテルに戻り、エレベーターに乗ろうとした時、2人の米国人女性が話しかけてきました。
「あなたがユダヤ教徒でなければ、エレベーターのスイッチを押してくれないか。」と 。
 エルサレムと違って世俗化の進んだテルアビブのホテルでは、安息日用のエレベーターが動いていない事が多いと彼女たちは嘆いていました。もし私に出会わなかったら、彼女達は朝まで誰かを待っていたでしょう。

 何が労働であるかは、ユダヤ教のラビが頻繁に会議を開き、旧約聖書から解釈していきます。2009年10月26日付AP通信(共同通信)は、安息日用エレベーターも禁止する新たな法が発令されたと報じています。
 エルサレムの高層階に住む、超正統派の夫婦が、安息日に、よちよち歩きの子供や生まれて間もない子供5人を抱えて階段をゆっくりと登っている姿が書かれています。イスラエル内だけでなく、海外に住む超正統派のユダヤ人に影響を与えると伝えています。多くのユダヤ人が暮らすニューヨークの不動産業者の1人 は安息日エレベーターを今すぐ考え直す事はないであろうと報じています。

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誰にでもわかるパレスチナ問題(その65)主任研究員 矢野裕巳

 

「聖地を通してユダヤ教、キリスト教、イスラム教を考える」

 

 聖地とは、神聖な土地。神・仏・聖人・などに関係ある土地(広辞苑)また、特定の宗教、信仰にとっての本山、本拠地、拠点となる寺院、教会、 神社のあるところ、またはその宗教の開祖、創始者にまつわる重要なところ、あるいは奇跡や霊的な出来事の舞台となったところ。そこに参拝する事は信者に とって特別なことであり、それへの巡拝は信仰生活にとって特別な意味を持っている。(ウィキペディア)

 

 

ユダヤ教の聖地


 ユダヤ教徒にとって旧約聖書に登場するカンナの地つまりパレスチナ地方、現在のイスラエルとパレスチナ自治区を含めた土地が聖地と言えるでしょう。エルサレム、ヘブロン、ティベリア、ツアット等聖書にも記述がありユダヤ教徒にとって聖なる地はこの地域に存在します。

 とりわけ、古代ユダ王国の首都であり神殿が置かれていた、エルサレムはユダヤ教徒にとっての聖地です。紀元70年ローマ帝国によって第2神殿が破壊され、その外壁の一部が西の壁として残されており、ここは嘆きの壁ともよばれています。この嘆きの壁はユダヤ人にとって最も神聖な聖地といえます。神聖なる 神殿喪失を嘆き再建を祈場所として常に多くのユダヤ教徒の祈りが聞こえる聖なる地なのです。

 

 

キリスト教の聖地


 イエスが教えを述べ、処刑され、埋葬され、そして復活したエルサレムはキリスト教の信仰と深い関係がありキリスト教第一の聖地です。ローマ市内にある世界でもっとも小さい国、バチカン市国がキリスト教第2の聖地と考えられています。
 バチカンはカトリック教会の総本山でローマ教皇によって統治されています。ヴァチカンがカトリック教会の中心地になったのは12使徒(イエスの弟子達の中で、特に選ばれた12人)の1人であるペトロが殉死しこのバチカンの丘に葬られたという伝承に由来します。

 4世紀の前半、キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝がサン・ピエトロ大聖堂を建立。ペトロは初代ローマ法王とされました。
 ちなみに、バチカン市国の総面積(0.44?)は東京ディズニーランド(0.52?)より小さいのです。スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラがキリスト教第3の聖地に 数えられています。12使徒の1人ヤコブがエルサレムで殉教後ガリシア州(スペイン北西部に位置し、州都はサンティアゴ・デ・コンポステーラ)で埋葬されたという伝承が残っていました。

 813年、サンティアゴ・デ・コンポステーラで天使のお告げによってヤコブの墓が発見されたと考えられています。そしてその墓の上に大聖堂が建てられ、一年を通じて多くの巡礼者を集めています。

 キリスト教は様々な宗派に分かれた世界宗教であり、それぞれの宗派によって聖地の考え方も違っています。たとえばコンスタンチノーブルなども(現在のトルコイスタンブール)正教会のキリスト教徒にとっては歴史的に見ても重要な聖地です。


 

イスラム教の聖地


 最後の預言者ムハンマドの生誕地であり、イスラム初期の活動舞台である、メッカがイスラム第一の聖地です。メッカには神の館であるカーバ神殿があります。カーバ神殿を最初に建立したのはアダムであるとの言い伝えが残っているそうです。

 しかしノアの洪水で破壊され、アブラハムとその子イシマイルが再建したと言われています。全世界のイスラム教徒がこのメッカに向かって一日5度の祈りを捧げているのです。

 前回も触れましたが、ムハンマッドがメッカでの迫害を逃れて移り住んだ(ヒジャラ)メディナはイスラム教第2の聖地です。そしてエルサレム。イスラム教徒にとってエルサレムはムハンマドが聖天した地であり、イスラム教第3の聖地です。
 コーランによれば、ムハンマッドがメッカのカーバ神殿からエルサレムの 神殿の丘に天使ガブリエルに連れられ一夜で旅をしました。そして、エルサレムの神殿の岩から天馬に乗って昇天したといわれている。ムハンマドが昇天した場所には後のウマイヤ朝の時代に岩のドームが築かれました。


 

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地エルサレム


 同じ宗教でも宗派によって聖地の考え方も大きく違う事がありますが、3つの一神教の聖地をどの宗派にも受け入れられる形で表せば、ユダヤ教、キリスト教はエルサレム。イスラム教はメッカ、メディナ、エルサレム。
 つまり、エルサレムは3つの宗教のすべてにとって聖地となっているのです。しかも その聖地は四方1キロ弱の狭い旧市内にあります。

 かつてユダヤ教の神殿が建てられていた場所にのこる1枚の西壁(嘆きの壁)その目と鼻の先、200メートル程離れたところにあり岩のドームとアル・アク サ・モスクはイスラム教の聖地。そのすぐそばには、キリスト教徒にとってもっとも神聖な聖墳墓教会があります。パレスチナ紛争の根本原因が宗教対立でないとしても、ほとんど隣り合い肩を並べて存在する聖地をもつ世界3大一神教の相互理解。紛争解決への1つの鍵を握っている事は確かだと思います。

 いい意味でも悪い意味でも、日本人の持つ多神教的寛容さはアブラハムの一神教とは根本的に違っています。子供が生まれると神社に参拝し、亡くなれば、お寺でお葬式をだし、結婚式は教会で。そのような国民と同じように宗教を語る事は困難でしょう。お互いの聖地を敬い、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が、自分たちの宗教と同じように他の宗教への敬意をもって接する事ができれば、そしてその事をこのエルサレムで実践できれば、単にシンボルとしての世界平和ではなく、現実の世界平和への大きなステップになるのではと私は考えます。

誰にでもわかるパレスチナ問題(その66)主任研究員 矢野裕巳

 

「一神教と多神教"  ”砂漠=一神教? 四季=多神教?」

 私は、以前、イスラエル南部のネゲブ砂漠で、出会った日本人グループの1人が言っ た言葉を今も鮮明に覚えています。どこまでもつづく砂漠をみながら、「まさに一神 教の世界ですね、このように草も木もはえていない、何もないはところで一神教がうまれるのですね。」と私に話かけてきました。さらに彼は「我々日本のように緑がゆたかで四季にめぐまれ自然豊かなところでは、多神教がうまれるのでしょうね」
 よく耳にする話だが、そんな単純に考えられのかな? がその時の私の印象でした。


 

一神教と多神教の発生は環境の違いから?


 ネゲブ砂漠で出会った日本人のコメントは、彼自身の素直な感想であったかもしれませんが、同時に日本の著名な宗教学者や哲学者等の発言に強い影響を受けているように、私には思えました。皆さんは次のような話を何度か聞かれた事があるでしょう?

 「一神教は自然を支配しようとするが多神教では自然との共生を目指している。そしてその根拠を自然環境の違いに求めている。さらにその自然環境から農業生産の違いが生じ、人間による植物支配の小麦農業、人間による動物支配である牧畜から一神教が生まれ、水を大事にし自然との共生による稲作農業から多神教が生まれたのです」


 

宗教のほとんどは多神教


 何度も出てきましたが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はそれぞれ同じようにア ブラハムを祖とする一神教です。世界中でユダヤ教徒は1,300万人、キリスト教徒は20億人、イスラム教徒は12億人とそれぞれ推定されます。つまり世界の人口のおよ そ半分は一神教信者となります。ただ、世界中に存在する数えきれない宗教のなかで、 唯一この3つの宗教が一神教であり、アジアを中心に5億の信徒をもつ仏教を含めその他のすべての宗教は多神教と言えるでしょう。

 多神教の代表であるヒンズー教はインド、ネパールで多数派をしめ世界中で10億人と 推定されます。日本の神道、仏教北南米の先住民やアフリカの民族宗教もみな多神教のグ ループです。
 信徒数が多いのでそう感じないかもしれませんが、世界の宗教のほとんどは多神教で あり、その面でいえば、アブラハムの宗教は中東地域に生まれたきわめて特異な形態の宗教なのです。


 

一神教誕生以前の宗教は多神教


 ユダヤ教誕生以前のパレスチナも多神教の世界でした。現在国民のほとんどが一神教信者の中東諸国もかつては、多神教の国でした。砂漠から一神教が成立する なら、世界各地の荒野や砂漠地帯、もっと具体的い言えば、日本と違って自然環境に恵まれない土地からは一神教が次々に誕生しなければならないはずです。

 

多神教だから寛容?

 日本は島国で、周囲を海に囲まれ、山に囲まれているから、自然を崇拝し、自然にやどる神々に対する畏敬の念をまっている。だから他の人達にも寛容に接するのだとの考えは1面的であるのではないでしょうか?

 

一神教VS多神教=西洋VS東洋??


 多くの文明論的書籍に表現されている一神教と多神教の記述をみれば、まるで東洋と西洋との対比に置き換えて考えられているように私には感じます。そして大部分の論点は多神教、すなわち東洋の優位性が述べられています。とくに現在もつづく世界の 多くの紛争が一神教の他をみとめない姿勢にあるとして、今後世界は寛容の精神をもつ多神教に回帰すべきである。
 また世界の自然破壊はこれまた一神教の自然を支配する考えに起因する。だから環境問題解決は自然との共生を説く多神教の考えを土台にするべきであると主張しているのです。
 日本は明治維新以来一神教を基礎とした西洋化の道を進んできましたが、今こそ多神教の道を目指すべきであるなどの言説はまさに西洋文化と東洋文化に 欧米とアジアに置き換えて述べているように思えます。
 土着の宗教はべつにして、長らく一神教が中心のアジアの国、インドネシア(イスラム)とタイ(仏教)の国民性のなかにどれほどの寛容性の違いがあるのか一度調べてみたいと思います。

アンカー 66
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